旧皇族の皇籍復帰は「歴史的に見てもイレギュラーではない」記事は「極めて正確性を欠いた不穏当なものと言わざるを得ない」【愛子さまトーク・S博士さんコメントより】

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「愛子さま排除法」による養子縁組肯定の記事を取り上げた愛子さまトークのコメント欄に宮内庁内部に詳しいS博士さんより、ご意見が届きました。

princess AIKO TALK(第1100回)男系ライター朝霞保人氏にアドバイスするよ!

元記事
旧皇族の皇籍復帰は「歴史的に見てもイレギュラーではない」 そして「皇籍離脱した女性皇族が復帰した前例も……」 では「黒田清子さん」「小室眞子さん」の復帰は?【デイリー新潮】

AERA第1論文 宮内庁書陵部前編集課長・鹿内浩胤氏(お茶の水女子大学客員研究員〈日本史〉)
皇室典範改正案の「養子案」復活は正当性欠く 元宮内庁書陵部専門研究者が指摘する問題点【AERA】

S博士さん
「宮内庁書陵部に勤務歴のある男性」が発言しているということで、いささかなりとも内部事情を知っている者として、デイリー新潮の記事を読みました。その結果、宮内庁書陵部OBとの発言とは思われない箇所が多く、看過できないと考えましたので、以下、その人物の発言引用部分と朝霞氏の解説文の双方について、この記事の疑問点を列挙いたします。まいこさんに御手紙を送られた方の指摘と重複する部分もございますが、その点は御寛恕下さい。

「日本の歴史を紐解けば、旧皇族が皇室に復帰することは決してイレギュラーとまでは言えないようです」宮内庁書陵部に勤務歴のある男性は、こう話す。
←前編修課長がAERA第1論文(以下、第1論文)で主張した「身分の不可逆性」の原則への批判のつもりだろうが、以下に諸点を列挙する通り、全く批判になっていない。

時代があまりに違いすぎるとの見方もあるが、実際に第59代の宇多天皇(887年〜897年)は、過剰なまでの皇族数の増加と、それに起因する財政難によって即位前の一時期、皇族の身分を離れており、戦後の旧皇族と状況が似ている。
←「宇多天皇の父である光孝天皇は、即位後間もなく、皇太子を定めず、その皇子・皇女たちに「源朝臣」の姓を賜い、臣籍降下させている。これは当時の最高権力者であり、陽成天皇退位後の混乱の中で、複数の候補者の中から自身を擁立した藤原基経に、「自分の子孫に皇位を継がせる気持ちはないこと」を示したものとされる。その臣籍降下した皇子の一人であった源定省が、光孝天皇重病という非常事態の中、これまた基経の判断で急遽皇籍に復帰して皇太子となり、皇位を嗣いだ。宇多天皇である」(第1論文)。
光孝天皇の皇子女の臣籍降下は、皇族数の増加と財政難より、上記のような藤原基経に対する政治的配慮によるものであり、「戦後の旧皇族と状況が似ている」とは言えない。そもそも宇多の皇籍復帰後の皇位継承、醍醐の皇籍取得後の皇位継承は「凶例」であり、後世の規範となる「先例」ではないので、この2例の存在をいくら喧伝しても、養子案を「イレギュラーとは言えない」とする理由にはならない。

「宇多天皇は臣籍降下した本人であり、改正皇室典範で養子入りする男性はあくまで子孫ですが、伏見博明さんのように元皇族も存命なので、やはりこの法改正は歴史的に見ても、無理筋には当たりません」(同)
←昭和22年の一斉皇籍離脱の際に皇族だった人の中で存命の人は現在79歳以上であり、男系男子の子孫を増やすことを目的とする養子皇族男子の対象にはなり得ないので、伏見博明氏のような高齢な方を例に出しても、「無理筋」との指摘に対する反論には全くなっていない

明治以降に宮内省、宮内府、宮内庁が作成した文書を所蔵する宮内庁公文書館は図書課に属する。
←宮内公文書館であり、宮内庁公文書館ではない

天皇陵の管理を現地で行い「守部(もりべ)」や「陵墓守部(しゅぶ)」と呼ばれる現業職に採用が分かれており、守部は現地採用で、東京の宮内庁本庁への異動はほぼ行われていない。
←現地の陵墓職員は「陵墓守部(しゅぶ)」であり、それと別の「守部(もりべ)」という職員はいない。また、現地採用の陵墓守部の中には宮内庁本庁に数年間異動して勤務し、将来の地方陵墓管区事務所の幹部になった人物も少なくない

欠員補充を中心に、書陵部で不定期に行われている研究職の採用では、日本の近世や近現代の史学、歴史地理学、考古学の専門知識を有する大学院の修士課程修了者または修了見込みを対象とするケースが多い傾向にある。
←編修課皇室制度調査室の研究職の採用は、これまで例外なく日本古代史専攻者を対象にしている。また、図書課図書寮文庫図書調査室では和歌の研究も行っているので、国文学専攻者も採用している。

前出の元書陵部勤務の男性は「自民党保守派の議員先生方が求めていた旧宮家の皇族復帰の可否についても、ずいぶん前から調査研究をしている職員がいました」と打ち明ける。
←改正皇室典範に盛り込まれた養子案の調査研究をしていたのは内閣官房の皇室典範改正準備室であり、書陵部は準備室から求められた「皇室における養子」の歴史的事実に関する客観的な史料を提供しただけである。

宇多天皇の皇族復帰の際には、姉の為子内親王も、「一旦は皇籍を離脱して源為子として第二の人生を送っていた」(同)ものの、弟の即位後に皇族へ復帰して内親王となっている。
為子内親王は宇多天皇の同母妹

歴史を紐解いてゆくと、皇室を出て嫁いだ後に内親王宣下を受けた、つまり皇族の身分に復帰したという例もある。平安時代、堀河天皇(第73代)の娘として生まれた喜子内親王は、当時は今と異なり、自動的に内親王となる制度ではなかったため、女王の立場から嫁ぎ、臣籍降下した。だが夫の死後、すでに40代となっていたので異例ではあったが「卜定(ぼくじょう)」と呼ばれる占いにより、伊勢神宮の斎宮に選出されたことから「内親王宣下」の手続きを経て、皇族に復帰している。 「斎宮は未婚の皇女、つまり内親王か女王しか就くことができないという原則がありましたが、当時は適齢期で条件に合う未婚の皇女が不足していたため、彼女に白羽の矢が立ったとみられています。異例の抜擢なだけに、女王よりも権威のある内親王にすることで、体裁を整えたということのようです」(同)
←①江戸時代までにおいては、皇族女子が非皇族男子と結婚しても、その女子は皇族身分のままだったので、結婚に伴う臣籍降下・皇族復帰ということはなかった。  
②宮内省編纂『天皇皇族実録』の喜子内親王の項を見る限り、斎王に卜定される以前に同内親王が結婚したという史料はない。  
③天照大神に仕える斎王は神聖な存在であり、結婚歴のある内親王・女王がそれに選ばれるということはあり得ない。  
④よって、上記の喜子内親王に関する記述は全くの事実誤認であり、この書陵部OBが何を根拠にこのようなことを述べたのか不明

ほかにも奈良時代の井上内親王は天智天皇(第38代)と天武天皇(同40代)の血筋を巡る政争に巻き込まれ、「天皇を呪った」という冤罪によって皇族の身分を剝奪。一般庶民の「庶人」となったが、死後に名誉が回復され、内親王として弔われたという変則的な皇族復帰の前例もある。
←井上内親王の死後の皇籍復帰は、「懲戒により皇籍を剝奪された者が、後に許されて皇籍に復帰した例」、すなわち「凶例」であり、後世の規範となる皇籍復帰の「先例」にはならない。

「宮内庁書陵部に勤務歴のある男性」なる人物のコメントは、宮内庁書陵部に関する基本的事項に関する誤りがあまりにも多く、本当に書陵部OBであるのかさえ疑わしいと思われます(ほんの短期間書陵部でアルバイトした人であっても「勤務歴のある」とは言えます)。ライターの朝霞氏がその人物のコメントを正確に反映できていないという可能性も残りますが、いずれにせよ、今回のデイリー新潮の記事は極めて正確性を欠いた不穏当なものと言わざるを得ないと結論します。

文字通り一から十まで、よくもここまでデタラメを並べ立てたものと
あきれ果てる記事だったことがよく分かります。

朝霞氏の記事は、男系派で皇室の皆さまを貶めるものばかりなので
これまで当サイトで取り上げることは、ほとんどありませんでした。

しかしながら男系派が金科玉条のように掲げる宇多天皇の事例を「凶例」と断じ
養子案の根拠を完全に粉砕された宮内庁書陵部の前課長・鹿内氏の論文を
わざわざ「宮内庁書陵部に勤務歴のある男性」という人物に語らせる形で
貶めようとしているのは見過ごすことができなかったので、事例の是非ではなく
養子縁組を肯定する意図のみを指摘する記事を当サイトに投稿したところ、
愛子さまトークでご紹介した喜子内親王の記述の誤りをメールでお寄せいただき
さらにS博士さんが、詳細な反証をしてくださいました。

史料を正確に誠実に読み解き、善用しようと努める方による
安定的皇位継承へのご尽力に、心より感謝申し上げます。

「愛子天皇への道」サイト運営メンバー まいこ

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