聖徳太子を過大評価して推古帝を軽んじる理由は男尊女卑と自虐史観

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 「英雄たちの選択」推古天皇を採り上げていました。まず話を聞いた相手が『女帝の古代王権史』の著者である義江明子氏だったことが画期的でした。「史上初の女性天皇」を強調していましたが、当サイトに集う人なら初の女帝は「神功天皇」だと知っています。

 敏達帝が崩御すると皇后だった額田部皇女(後の推古帝)は殯宮に侵入して強姦しようとした穴穂部皇子(異母弟)を拒絶しました。当時は群臣推戴制であり、大王として相応しいと群臣に認めさせることが重要でした。次に立った用明帝は病弱だったために次代の候補を巡って額田部&蘇我馬子VS穴穂部&物部守屋の対立が鮮明となり、用明帝が崩御すると額田部は穴穂部の誅殺を指示し、次に傀儡として崇峻帝を擁立しました。傀儡で満足しない崇峻を馬子が暗殺すると、群臣会議で実力を認められた額田部が即位(推古帝)しました。

 男帝が続いてきた中での女帝だったため、推古帝はシナ大陸で流行っていた仏教を利用することにし、飛鳥寺の五重塔の基礎に舎利(釈迦の遺骨)を埋納し、仏教を司る王権として正当性をアピールしたわけです。また厩戸皇子に諮って隋に使節を派遣し、「日出処天子致書…」で始まる国書を渡すと煬帝は「これは冊封体制への挑戦か?」と激怒しました。隋からの答礼使節を迎えるに当たって推古帝は小墾田宮へ遷都し、漢風の宮殿を建て、冠位で色分けした衣服を身に着ける群臣が使節を迎え、冊封には入らない旨を伝えながらも謙虚に教えを乞う姿勢を見せると、使節から報告を受けた煬帝も上機嫌になりました。また、仏教の本場はインドであるため、仏教の下では隋と日ノ本に差は無いという立場も見事です。隣国発のカルト教団に支持母体を確保してもらいつつ、宗主国のトップにも隣で飛び跳ねて媚びる属国領主(高市早苗)とは雲泥の差です。

 さて、30年以上に渡って国家の舵取りをして来た推古朝にも終焉が迫りました。推古帝より先に厩戸皇子(追号は聖徳太子)が亡くなった今、候補は山背大兄王(太子の子)or田村皇子(夫・敏達の孫)ですが、共に天皇の子ではないため決め手に欠けます。推古帝の選択は群臣推挙に任す(伝統)か?先帝の意向を反映させる(新儀)か?です。結局、推古帝は死の前日に各候補に遺言し、群臣は「遺命」に従い、やがて田村皇子が即位(舒明帝)しました。推古帝は伝統を踏まえつつ新儀を決断して成功させ続けた英雄でした。    

文:責:京都のS

6 件のコメント

    京都のS

    2026年3月19日

     こん様、有益な情報をありがとうございます。ぜひ見ていただきたいです。

    京都のS

    2026年3月19日

     パワー様、コメントありがとうございます。額田部皇女(推古帝)は厩戸皇子(聖徳太子)に諮りはしたものの決断は自分でしたはずです。厩戸の仕事は「十七条憲法」の条文をどうするか?とかの細部を相談したのだろうと思われます。
     以上を認められるかどうかが、自虐史観(左派)か男尊女卑(右派)か、その両方(馬鹿の極北)かの分岐点でしょう。もちろん認められる人が真正保守のナショナリストです。

    京都のS

    2026年3月19日

     ふぇい様、掲載とコメント、ありがとうございました。私は当番組を録画しつつリアタイで追いかけながら、メモを取りながら観ました。義江明子さんが出た時はテンションが上がりましたよ。当時は記紀編纂前ですから、神功天皇の記憶も残っていたはずです。「女帝は新儀ではない」と。額田部にとっての新儀は、仏教の導入と遣隋使と、神輿本体(帝本人)による群臣推戴制への介入でしょう。

    こん

    2026年3月19日

    3/25(水)17:00-18:00 NHK_BSで再放送があるようです!
    見逃したので再放送を録画しようと思います。

    パワーホール

    2026年3月18日

    男尊女卑もですが自虐も本当に嫌ですね。

    ふぇい

    2026年3月18日

    京都のSさん投稿ありがとうございます。
    サポーターの間でも今回の英雄たちの選択話題になっていました。

    義江明子氏が出演した番組見たかったです!
    伝統を踏まえつつ新儀を決断。
    今こそ決断の時です!

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