グリル厄介者vol.5(その4)

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シン・サトルです。
では、早速。

ここまで、 ・制度論 ・政局分析 ・戦況演出 ・先例 などについて整理してきました。今回は、倉山氏の文章で繰り返し出てくる「国体」 「伝統」 「国民の理解」という言葉について、少し整理してみたいと思います。

この領域は、かなり慎重に扱う必要があります。

なぜなら、単なる法技術や制度設計だけでは、完結しない部分を含んでいるからです。

実際、皇室は、(敢えてこの言い方をしますが)単なる国家機関というだけではなく、長い歴史の中で、 国民意識、 共同体感覚、 文化、 祭祀、 象徴性……そうしたものと接続しながら存在してこられました。

つまり、「制度だけ説明すれば終わる」

という話ではない。

ここは、かなり重要……見過ごせない点だと思います。

そして、倉山氏側が使う、「国体」 「伝統」 という言葉にも、単なる法制度を超えた、 歴史連続性や共同体感覚のようなものを含めたい……という意識は、あるのだと私も思います。

その点自体は、理解、共感できる部分も、間違いなく私にもあります。

ただ一方で、「国体」 「伝統」 という言葉は、強い言葉でもあります。

強い言葉である以上、

「具体的に何を指しているのか?」
「現代制度とどう接続するのか?」
「どこまで制度化可能なのか?」

を、慎重に確認する必要性も、確実にある。

たとえば、「伝統」と言っても、長い歴史の中で、皇室制度そのものは、常に全く同じ形だったわけではありません。

時代ごとの制度調整や、社会との接続を行いながら、特に権力構造とも一定の距離を取りつつ、それでも連続性を持たせようとしてきた面もある。

つまり、「変わってはいけない」だけではなく、「どう持たせ続けるか」も、歴史の一部だった可能性は大きいのではないか。

そして、現代の皇室は、「国民と共に在る」…という側面を、長い時間をかけて醸成してこられました。

だからこそ、本来「伝統」 「国体」 「国民の理解」…などを語る際にも、制度、 歴史、 国民感情、 象徴性、そうした複数要素を、丁寧に確認していく必要があるのだと思います。

少なくとも、「伝統だから終わり」…でも、「制度だけで切ればよい」…でもないのでしょう。

少なくとも、私はそのように考えてます。

むしろ必要なのは、「どのように未来へ持たせるのか?」という視点なのだと思います。

そして、その確認は、 一世代だけで終わるものでもないのでしょう。

未来の日本社会。 未来の日本国民。 未来にわたる、かけがえのない皇室。
その中で、 (語弊がある言い方ですが)また観測され、 また調整され、 また接続されていく……。

おそらく、 「象徴天皇制」とは、そうした“継続的調整”そのものも、含んでいるのかもしれません。

だからこそ今必要なのは、「勝った」「負けた」だけではなく、「本当に将来にわたり、制度として持つのか?」を、静かに確認していくことなのだと思います。

つまり、

「男系維持」だけでも、「人気」だけでもなく、歴史、 制度、 象徴性、 国民統合、 実効性…、それらを含めて、「将来にわたり制度として持つのか?」を確認していく必要がある。

私は、そう考えています。

つづく

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