令和の極左が保守を僭称する滑稽を嗤う

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 「知恵泉」(3/17)が山内容堂を採り上げていました。大酒呑みで言うことがコロコロ変わるため「酔って勤皇、冷めれば佐幕」と揶揄されましたが、再評価が進んでいるそうです。山内豊信(容堂)は土佐藩主の甥でしたが、従兄弟が次々と死んだために藩主の座が転がり込み、黒船来航(1853)を受けて容堂は開国派の吉田東洋を抜擢して海防強化に努めました。一方、幕府が勝手に結んだ日米通商条約(1858)に孝明帝が激怒し、攘夷派も活発化しましたが、大老・井伊直弼は反対派を大量粛清(安政の大獄)し、朝廷との融和を訴える公武合体派の容堂も謹慎と隠居を命じられました。

 直弼が暗殺(桜田門外の変:1860)された頃から孝明帝も態度を軟化させ、皇女和宮と14代将軍・徳川家茂の婚姻も成立(1862)しましたが、八月十八日の政変(七卿堕ち:1863)を経て攘夷派(長州)が力を失うと孝明帝は公武合体派(山内容堂・松平春嶽・島津久光)を支持しましたが、ここで薩摩が倒幕派に回った(薩長同盟)ために形勢逆転し、さらに孝明帝の崩御(1866)で公武合体派は後ろ盾を失いました。ここで容堂は後藤象二郎の提言を容れて大政奉還を進言し、15代・慶喜は政権を朝廷に返上(1867/10/14)して討幕派の大義を失わせました。ちなみに大政奉還は坂本龍馬の船中八策が元ではなく、松平春嶽→坂本龍馬→後藤象二郎→山内容堂→徳川慶喜という流れの中継点に過ぎません。

 しかし、薩長と岩倉具視王政復古のクーデター(1867/12/9)を敢行し、慶喜を排除した御前会議で徳川宗家に冠位と領地の返還を迫る決定を下しました。ここで容堂は「平和的に政権を返した慶喜は忠臣」「招集して意見を聞くべき」と主張しましたが、容堂は西郷に暗殺を仄めかされて沈黙したとされます。結局、偶発的に薩長の挑発から)戊辰戦争(英仏の代理戦争:1868~)が勃発し、列強国の武器商人(ダ―ディンマセソン商会etc.)が暴利を貪りつつ日本は国力を落としました。ちなみに坂本龍馬の海援隊は武器商人の下請けです。

 以上から山内容堂という人物は、内戦を防ぐことを最優先に掲げ、時処位に応じて対応(公武合体→大政奉還)した真正保守の行動者だったことが判ります。また倒幕派とは革命派(左翼)であり、明治革命政権天皇を便利遣いするのに用いた御題目(神武創業)を、保守を僭称する令和の極左が有難がっている図は滑稽の極みです。    

文責:京都のS

4 件のコメント

    京都のS

    2026年3月25日

     ちなみに「西郷に暗殺を仄めかされて沈黙した」件ですが、これは容堂自身のことではなく、「短刀一本で片が付く」と慶喜の暗殺を仄めかしたのだろうだと推測されます。

    京都のS

    2026年3月24日

     ツッパリ様、コメントありがとうございます。番組でも「大政奉還」の元ネタは松平春嶽と大久保一翁(忠寛)の唱えた説だと解説していました。ただ、松平春嶽のブレーンだった横井小南の「国是七条」が「船中八策」の元ネタとして有名だったので、春嶽だけに焦点を当てました。
     それから、土佐勤皇党(&武市瑞山)のことも番組で採り上げていました。彼が以蔵に吉田東洋を殺らせたことが内戦(英仏の代理戦争としての戊辰戦争)を防ぐことに繋がったか?については、私は甚だ疑問なのです。「龍馬がゆく」とか「おーい!竜馬」といった司馬史観には私は立てません。

    ツッパリ傾奇者

    2026年3月23日

    皆様こんばんは。
    大政奉還については、それ自体を考えたのは、勝海舟と親しかった幕臣大久保忠寛が考えた物と言う説もあるみたいです。
    山内容堂と言えば、土佐勤王党の党首だった勤皇家武市瑞山先生に切腹を命じ、自害に追い込んだ人間なので、私からしたら、国士である武市先生を564た人間という印象があるので、あまり良い印象はないですが。彼も徳川慶喜公と同様に、日本が内戦に巻き込まれない様に行動していた事を考えると、武市瑞山先生とはある意味近い部分もあったのかもしれないですね。
    まあ、坂本龍馬なる夷狄に通じた武器商人が、京都見廻組に公務執行で564れたのは、天罰だったのかもしれませんね。

    京都のS

    2026年3月23日

     ふぇい様、掲載ありがとうございました。これは「逆賊の幕臣」(2027大河)への布石でしょうが、皇統問題の決着は2027年まで持ち越すわけにいきませんね。

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