
1月19日の「英雄たちの選択」は「徳川秀忠VS後水尾天皇」がテーマでした。徳川家康が関ケ原合戦(1600)に勝っても西日本には豊臣恩顧の大名が多く、彼らを抑えるために朝廷の権威が必要でした。そこで2代将軍・秀忠は娘・和子(まさこ)の政仁親王(後の後水尾帝)への入内を画策(1608)し、これを朝廷側も受け入れましたが、大阪の陣(1614~15)・家康死去(1616)・後陽成帝崩御(1617)…で延期され、入内計画が再始動した頃に側室(四辻与津子)との間に皇子が産まれました。激怒した秀忠は「風紀の乱れ」を理由に与津子の兄らを処罰しましたが、当時は帝が皇統維持のために庶子を設けるのは当然でした。反発した帝が赦免しないなら譲位すると伝えると、交渉役の藤堂高虎は「(後鳥羽上皇の先例を引きつつ)帝を配流した後に切腹する」と恫喝し、やがて帝が折れて和子は入内しました(1620)。
入内から3年目に皇女(女一宮)が誕生(1623)しましたが、秀忠の望みは徳川の血を引く男帝でした。しかし産まれた男児は次々と夭逝し、その期間は側室にも子が生まれておらず、徳川の隠密による殺害が噂されました。
ところで、幕府は禁中並公家諸法度で朝廷による高僧への紫衣の下賜を禁じていましたが、帝は無断で沢庵宗彭(大徳寺の住持)らに紫衣を許し、これに激怒した秀忠は沢庵の流罪と紫衣剥奪を決めました(紫衣事件:1627)。反発した帝は譲位の意向を示し、ココで秀忠の選択が設定されました。①譲位を撤回させる(女帝は1代限りが伝統・認めれば幕府の威信に係わる)、②譲位を認める(帝も和子も若いから次の子を待つべき)です。結局、秀忠は譲位を認めて興子内親王(女一宮)が即位し、明正帝が誕生しました(1630)。明正帝は異母弟(後の後光明帝)に譲位するまで朝幕融和を願い続ける賢帝でした。退位後の後水尾院は文化振興(寛永サロン)に努め、これを東福門院(和子)が経済的に支え(兄の3代家光に資金援助させた)、2人は修学院離宮で穏やかな余生を送りました。また明正上皇は十禅寺の住持に帰依し、元禄期の朝幕融和を見届けてから亡くなりました。
ちなみに番組の選択肢①は間違っています。『養老令』「継嗣令」の原注「女帝の子も亦同じ」が活きていたため、明正帝は独身を強いられず、実子への女系継承も可能でした。儒教的男系主義に脳を侵された幕府の「法度」や口出しさえ無ければ!
文責:京都のS
1 件のコメント
京都のS
2026年1月23日
本論は明正女帝(江戸初期)について書いたものですが、かつて後桜町女帝(江戸後期)について書いた「江戸後期の偉大な女帝に続くべきは愛子天皇」( https://aiko-sama.com/archives/59792 )とは、実はニコイチの関係です。