
大海人皇子(後の天武帝)には多くの妻がいました。主だった所では、中大兄皇子(大海人の実兄:後の天智帝)と蘇我遠智娘との間の大田皇女と鸕野讚良皇女(後の持統帝)、鏡王(宣化帝の孫)の娘・額田王(万葉歌人)、そして宗形徳善(筑前の豪族)の娘・尼子娘です。大海人皇子と額田王との間には十市皇女(648)が産まれ、尼子娘との間には高市皇子が産まれ(654)、大田皇女との間には大伯皇女(661)と大津皇子(663)が産まれ、鸕野讚良皇女との間には草壁皇子(662)が産まれました。
天智帝は大海人皇子を皇太子と定めながら実子の大友皇子を太政大臣に登用し、事実上の後継者としました。当時、立太子の条件は30才以上で母の出自が皇族または有力豪族の場合でしたから、母が伊賀采女宅子娘(地方豪族の娘)の大友は不適格ですが、天智帝は大友皇子と十市皇女を娶せて(女系の血で)格上げし、その子(葛野王)が成長して皇位を継ぐまでは倭姫王(天智帝の后:皇族)の称制で繋ぐ計画を立てました。しかし、天智帝が崩御(672)すると吉野に隠遁していた大海人皇子は挙兵し、乱は約1ヶ月で大海人側が勝ち、大友皇子は自害しました(壬申の乱)。
『書紀』には十市皇女が阿閇皇女(天智帝の娘:後の元明帝)と共に伊勢神宮を参拝した(675)という記述があります。当時の斎王(神宮に仕える皇女)は大伯皇女でしたが、天武帝が崩御(683)すると、大津皇子が謀反の嫌疑で自害に追い込まれ、その亡骸は二上山に葬られました。連座で斎王を解任され召還された大伯皇女は弟の死を嘆き、幾度も二上山に通ったそうです。しかし、大津皇子を謀殺してまで継承を望んだ草壁皇子が病死(686)すると、軽皇子(草壁と阿閇の子:後の文武帝)の成長を待ちつつ鸕野讚良は自ら即位(持統帝:690)しました。皇位への野心を持たなかった高市皇子(母が卑母ゆえ)は持統帝に重用され、その治世を支えました。
高市皇子(たけちのみこ)は壬申の乱における最大の功労者であり、飛鳥浄御原令制定・庚寅年籍作成・藤原京造営…といった施策を支え続け、葛野王に入れ智恵して直系(天武持統皇統)の正統性を主張させ、まさに「働いて働いて働いて…」な生涯でした。
同じ高市の文字を冠していても、高市早苗(たかいちさなえ)は対米ピョンピョン媚び・対中宣戦布告・男系固執養子案・統一支援隠蔽解散…頼むから働かずに今直ぐ退場してください。
文責:京都のS
1 件のコメント
京都のS
2026年1月29日
掲載ありがとうございます。申し訳ありませんがカテゴリーが「愛子さまトーク」になっています。「日々是皇室」に再分類をお願いできますでしょうか?