
長い皇室史の中で藤原摂関期(858~1086)に起こった2つの凶例を御存じでしょうか?
藤原氏による摂関政治の起源は藤原冬嗣・良房父子の頃です。冬嗣の娘・順子と仁明帝(54)との間に文徳帝(55)が生まれ、良房の娘・明子と文徳帝との間に清和帝(56)が生まれ、明子の妹・高子と清和帝との間に陽成帝(57)が生まれますが、良房の嫡子・基経は妹の高子と険悪だったため、宮中での殴殺事件の濡れ衣を着せて陽成帝を排除すると、同母弟の貞保親王ではなく大叔父に譲位させました(58代・光孝帝)。しかし、高齢の光孝帝は自身が中継ぎと考えたために皇子・皇女を全て臣籍降下させ、間もなく皇太子を定めずに崩御すると、基経は賜姓降下していた源定省(第7皇子)を復帰させ、数日のうちに親王宣下と立太子を済ませ、こうして宇多帝(59)は即位しました。また、宇多帝の第1子・源維城は、父が臣籍だった頃に生まれたにも拘らず親王宣下を受け(敦仁親王)、やがて即位しました(60代・醍醐帝)。つまり宇多帝と醍醐帝の2例は藤氏長者(基経)のエゴから強行された凶例でした。
さて、宇多帝は藤原氏を遠ざけつつ菅原道真ら有能な人材を登用して親政を行い、その施政は遣唐使の廃止や国風文化の隆盛などをもたらし、後年「寛平の治」として高く評価されています。しかし、帝個人の資質と「君臣の別」を侵した凶例の是非とは当然ながら評価基準が全く別です。
また、平安期の帝は皇位を巡る紛争を避けるために源姓を下賜して皇子を臣籍降下させることが多く、その代表例が清和源氏でしょう。ところで、摂関政治の最盛期をもたらした藤原道長の嫡妻(婿入り先)は源倫子(宇多源氏)であり、次妻(最も多く通う)は源明子(醍醐源氏)ですが、皇室を国風(女系女子も皇位継承可)から最も遠ざけた摂関政治の最盛期に「君臣の別」を侵した凶例の子孫が権力者と結び付いたのは非常に象徴的です。また宇多帝(1世孫)や醍醐帝(2世孫)でも凶例とされた
にも拘らず、令和では600年ほど遡らなければ現在の皇室と共通の祖先に辿り着かない臣下(崇光帝の22世孫:竹田恒泰の息子etc.)が三笠宮彬子女王(麻生太郎の姪)の養子という形で皇室に闖入しようとしており、それを主導したのが令和の藤原道長(麻生太郎)です。しかし、麻生太郎は実妹である三笠宮妃・信子様と不仲であるため、どちらかと言えば藤原基経に近いでしょう。
文責:京都のS
1 件のコメント
京都のS
2026年10月1日
ふぇい様、掲載ありがとうございました。宇多帝・醍醐帝の2大凶例についてです。
申し訳ありません。第4節の第6行目に不自然な改行があります。
さて、「光る君へ」関連は「『光る君へ』から皇族女子の生き辛さを思う 33rd season」( https://aiko-sama.com/archives/47593 )のコメント欄に全てのリンクがあります。