三島由紀夫の女系公認論(裏)

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 小室直樹の『三島由紀夫が復活する』という1985年の著作を2002年に復刻して出版したのは、前掲『血滾ル~』と『日本改正案~』の2書を出版した毎日ワンズです。『復活する』は三島由紀夫の論文を多く引用していますが、文学作品については『豊饒の海』という4部構成の連作(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』:三島の遺作)だけが取り上げられます。『豊饒の海』は主人公が輪廻転生を繰り返す作品ですが、本来のインド仏教では魂の存在を認めておらず、従って輪廻転生も無いそうです。ゆえに三島は、転生する主体が「魂」ではなく「意志」であることを説明するために、劇中では仏教(唯識論)の解説に多くの頁を割きました。唯識論とは、世界は「空」であり眼舌鼻耳身意の六識と末那識、阿頼耶識による認識だとする考え方のようです。ところで、伝わった先の各地でウイルスのように変異した仏教では、輪廻転生は解脱できなかった魂の罪障ゆえだとされ、であれば「七生報国」などは罪業の極みだと言えましょう。

 『豊饒の海』の設定では転生に要する期間は7日または49日となっています。そして『復活する』において小室は、三島が自決した日(11月25日)と三島の誕生日(1月14日)の間は49日間だと解読し、この事実は三島が転生を繰り返して七生報国する決意の表れだと考察しました。なるほど、三島が自身の生み出した作品群だけでなく、盾の会や決起と自決までを含めた全人生を作品と捉えたなら、「憲法改正草案」の出版が間に合わずとも決行せねばならなかったはずです。しかしながら、絶妙な天の配剤と言うべきか、幸いにも松藤竹次郎氏により「憲法改正草案」は日の目を見、三島が女系継承を公認していた事実は周知されることとなりました。

 ところで、ここに奇妙な符号があります。平成17(2005)年11月24日、皇位継承資格を女性天皇や女系天皇に拡大するよう求める有識者会議報告書が小泉総理(当時)に提出されました。三島が女系公認だった事実を示す書物が続けて出版(2003年&2005年)され、その影響があるかは測りかねますが、有識者会議は女帝と女系継承を認めるべきとの意見を提出しました。さらに、その日付(11月24日)は三島が決起する前日なのです。実に奇妙じゃないですか。これは「七生報国という罪業」を背負ってまで望んだ三島の遺志だと言えば凡庸かつ陳腐ですが、そう言いたくもなります。

(奥に続く)

文責:京都のS

5 件のコメント

    京都のS

    2023年4月14日

     よく考えれば11月24日は凄い日付ですね。新嘗祭(11月23日)と三島忌(11月25日)に挟まれています。

    京都のS

    2023年4月14日

    前回のリンク→( https://aiko-sama.com/archives/25322

    京都のStand User

    2023年4月14日

     れいにゃん様、素晴らしいコメをありがとうございます!!今のところ飽くまでも符号です。それを確信的なものに出来るか否かは現在を生きる我々に掛かっていますよね。
     「愛子さまファンの荒木飛呂彦はクリスチャン」とは、マニアックな情報を持ち出しましたね(笑)。ジョジョ7部から8部に掛けて示されるジョースター家と吉良家と東方家をまとめた家系図では、ジョースターの血統と精神は吉良ホリー・ジョースターから女系継承しています。ノンポリの荒木先生は無意識でしょうから、宗教的な何かが働いていると思いますね。

    れいにゃん

    2023年4月14日

    三島由紀夫は自決する日を選んでいたのですね。俗な言い方で申し訳ないですが、エモい!日付順におっていくと、平成17年の有識者会議報告書に、三島由紀夫が女系公認だったと解った時の空気は影響しているでしょう。優れた作品を残す人には宗教的な背景がありますよね。遠藤周作然り、三島由紀夫然り、小林よしのり然り。(因みに愛子さまファンの荒木飛呂彦はクリスチャン)
    仏教を熱心に取り込んだ時代に女性天皇が活躍した事実があり、外来の文化を緩やかに取り組む素地が作られて、現代日本にも繋がっています。それを今更儒教カルトに壊されてたまるか!と思います。
    「七生報国という罪業」を背負ってまで望んだ三島の遺志を信じて、元のあるべき議論の結実、平成の報告書に立ち返るように、声をあげていかないと!
    次回の奥が早くも楽しみです。

    京都のS

    2023年4月14日

     決起日の11月25日でなく前日の11月24日をクローズアップした理由は、盾の会・憲法研究会で討議させた「憲法改正草案」の結論を待ちながら、市谷での決起の準備も進めていた三島にとって、前日(24日)ほど焦燥感に駆られた日は無かったと思われます。三島にとってギリギリの選択を迫られた極点の日です。だから35年後の11月24日に事は起こった(有識者会議報告書が提出された)のでしょう。

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