ふと5月半ばになり、児玉神社の例大祭に参加した記憶がよみがえり、国護りの力添えになれればと
当時の体験をご紹介したく失礼致します。
今は入れなくなくなって久しい地元の児玉神社ですが、当時は江の島神社の近くにひっそりと鎮座されていましたが、人々の往来があり、朴訥な印象がある小高い丘に派手ではない、軍人らしい実質剛健な社がありました。台湾総督府をされていた児玉大将を祭る神社ですが、台湾の人々や李登輝氏が力添えされ、本社に李登輝氏の字が額縁にあり、日台友好の場でもありました。そこで縁があって例大祭に仕事の同僚と参加させて頂いた当時ですが、あの日は五月晴れで木々の緑が生き生きした感じでした。いつもは寡黙で素朴な軍人様の社が、ウキウキした雰囲気があり、リスの往来もあり、小高い丘に紅白の幕がはためいて、”あ、大将が喜んでいる!”と感じました。
社に近づくにつれ、段々厳かな、武人(神)の気迫が静かに漂い、白い鳥居にまで着くと、いつもの社と違い、ぱっと見でお偉い方々、戦時に兵隊に行ったと思われる高齢者の方々が静かに社の前の椅子に座られ、
思わず、誘った同僚と顔を見合わせ、”え?私達参加して良いの?”とたじろぎました。気軽に参加どうぞと言われたので面食らう感じでした。
思わず誘って頂いた禰宜(ねぎ)さんに尋ねると、”来て頂いてありがとうございます!”と歓迎して下さり、末席に座りいざ参加しました。最初、参進の儀で、宮司と禰宜(ねぎ)さんが凛として威風堂々と入られ、一礼から君が代斉唱、お祓いされ、宮司のお言葉があり、印象にあったのは、宮司が高場乱氏と思う女傑風で、”願わくば祭神の志を継がん!”と言う感じで、声高らかに言われたのが強く記憶に残っています。ちなみに杉山茂丸氏も縁がある神社でもあり、思わず、”ゴー宣、大東亜論、頭山満、杉山茂丸・・・国を護る志が共通があり、最強の御縁だ!”と興奮しました。
そこから、児玉大将が降りられ、献楽「国の鎮め」、例大祭の目玉の明治陸軍式拝礼があり、日露戦争時の陸軍兵士の分隊による、陸軍の号令、銃剣捧げ、さらに祝砲を撃つ!という内容で、おそらく堂々とやれるのはそう、無いのではと感じました。その後は、玉串拝礼となり、お偉方順に拝礼し、最後に「神奈川のYさん!」と呼ばれ、皆誰だ?と振りむかれ、頭が真っ白になりつつ玉串を捧げ、その後は特別に編成して頂いた演奏隊の軍楽が奏でられ、参列者全員で抜刀隊、戦友、日本陸軍、歩兵の本領など大きな声でのびのびと歌い締められました。軍歌を老若男女がのびのびと歌えるのは今では滅多にないもので、願わくばまた参加したく、まるで、児玉大将から
“よろしく頼むぞ!”
と背中を叩かれた例大祭でした。
志士にはまだ遠いですが、児玉大将の期待に背かないよう振る舞おうと思った次第です。
文責:神奈川県の神奈川のY。
3 件のコメント
神奈川のY
2024年5月16日
京都のS様、コメントありがとうございます。確かに神社界隈ではまだ男尊女卑感があり、男系固執の意見もあり、その中で女性宮司は珍しいのでしょうか、あまり身近に見たことないです。きっと児玉大将も祀られるなら、志士の魂を持つ人じゃないと嫌だったかもしれません。男系固執の男尊女卑野郎はお呼びではないかもです。
京都のS
2024年5月16日
あ、「女性の宮司」が「性の宮司」になってしまっていました。この間違いは色々とヤバいですね。
京都のS
2024年5月15日
Y様、貴重な体験談をありがとうございます。性の宮司(女傑風)だったのですね?つい女性宮司と聞くと「富岡八幡宮事件」を思い出してしまいます。女性宮司が「宮司の地位を奪われた」と逆恨みした弟に殺され、最終的に神社本庁から乗り込んできたオッサン宮司に社を支配されたという嫌な事件です。
同様の男尊女卑を遠因とする事件を繰り返さないためにも愛子天皇誕生が必要ですね。「女を卑しむ」の思想が脳髄に達していた頃ですから何とも言えませんが、男尊女卑の解消こそが現代の時処位に適う行き方ですから児玉源太郎大将も背中を押してくれるように思われます。