343空、剣部隊司令官の源田実氏をご紹介します(その19)

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原爆投下され、救助活動と偵察に奔走する剣部隊と源田実氏をご紹介します。(前回のあらすじを含みます。)

広島に原爆投下されたさい、剣部隊の哨戒していた隊員が青い強烈な閃光を見たそうです。爆風にさらされ、その光景を源田実氏達に伝え、後に源田実氏はアクロバット隊を創設するさい、原爆を忘れない為にブルーインパルスと命名したそうです。源田実氏は数少ない生き残りの志賀淑雄大尉や小高登貫氏や笠井智一氏達と供に終戦まで剣部隊にて出来る限りの活動をしました。

また、終戦近くになると源田実氏は新たにパイロット補充を一切止め、この頃、源田実氏は福知山に移り、夜間攻撃だけを敢行する予定で、残った隊員と出撃する予定であったそうです。源田実氏は自らの最後をいかに飾るかを考えるようになり、志賀淑雄大尉が倒れた後は自分が空中指揮をとって戦うつもりで、飛行機乗りらしい最後を望んでいたという話があります。

また、源田実氏は第三の原爆はあってはならないと心に決め、「我が剣部隊も既に組織的な攻撃に対する機能は乏しくなった。もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら、俺が体当たり(特攻)をしてでも阻止してみせる。その時は本田分隊士、二番機をつとめてくれ」と話しました。

要は、特攻を辞さないと考え、二番機は源田実氏の援護ではなく、源田の特攻でも落ちない場合にとどめをさす役割であったそうです。また、隊士の本田氏曰く、源田実氏のパイロット技量について、非常に腕がよく、操縦もとてもうまかったが、荒いのでついて行くのが大変だったと語っていたそうです(ウィキペディア参照)。戦後、色々と言われる源田実氏ですが、この覚悟から観ると軍人として筋を通した人と観れます。

そんな中、終戦を迎え、源田実氏は最初は日本が降伏したというのを信じられず、中央に駆けあったそうです。この時、他の隊と同様に降伏に納得出来ない様子でしたが、海軍軍人同期でもある、高松宮宣仁親王の説得にてようやく納得したとあります。高松宮宣仁親王は大正天皇と貞明皇后の第三皇子で、皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がおられます。また、その性格は温厚にて特別扱いを厭われ、海軍にて親王は断固として一将校として勤務し、有馬艦長に「殿下ほど忠実に命令を実行する士官に接したことはない」と言わしめた御仁でした。
 また、戦後硫黄島にて洞窟内で遺骨の上で遺骨を踏んで歩くようになってしまっている中、宣仁親王はそれをためらい、靴と靴下も脱ぎ、素足になって骨片の散らばる洞窟内へ入って行ったエピソードがあります。

話を戻しますと、源田実氏は自ら軍令部に入り、今回の放送は、

「陛下御自らの大御心であることが充分納得出来て今帰って来た。と言い、之以上戦を続けるとは不忠の臣となる。諸君は直ちに帰郷して祖国再建に立ち上がって欲しい。恐らくこの世の中で諸君と再び会うことはないと思う、皆元気で自分の志に進んで欲しい」と訓示しました。

終戦後、海軍の暴走と知られる厚木航空隊事件(徹底抗戦のビラをばら撒いた)が起こり、小園安名率いる第三〇二海軍航空隊(302空)の使者が決起への参加を求めに来たさいに、剣部隊を預かっている志賀淑雄大尉は「わが隊は行動をともにしない。余計なことをするな、帰れ!」と一喝して追い返したとあり、源田実氏達は指揮を乱さず最後まで活動しました。
 また、1945年8月17日に源田実氏は、軍令部部長富岡定俊少将より皇統護持作戦を受けました。敗戦によって国体に危機が迫った場合、皇族を匿い皇統を守る作戦であったとあり、准士官以上で、源田実氏とともに自決する志願者を集い作戦参加者を選別した(妻帯者や長男は帰らされた)とあります。生涯をかける他言無用の任務であることの説明があり、志賀淑雄大尉含む23名で盟約を結び、この際に下士官以下の隊員も自決に参加しようとしたが、源田実氏は「皆ありがとう。俺と一緒に死んでくれるのはありがたい。しかしよく聞け。若い下士官はまだまだこれから人生がある。日本はこの戦争には負けたが、必ずや生きていれば二度目のお召しがあるだろうから、それまで郷里にて待て」「絶対に死ぬな」と諌めて帰省させたとあります。この作戦が不発になったさい、源田実氏は「計画が発動されなかったことが最大の成功だった。我々は目的を達し使命を果たした。我々の行動は無駄ではなかった」と締めました。

その後、 極東軍事裁判に源田実氏は第二聯合航空隊参謀として、爆撃に関する根本方針 と第一航空艦隊参謀として、真珠湾攻撃の立案と実施について供述したりします。また、川南工業でその後に働くも公職追放となり、東洋装備株式会社取締役社長などするも、源田実氏はなんかしっくり来ないと思い、1953年(昭和28年)に、軍人として返り咲くように防衛庁入庁し、航空幕僚監部装備部長として、航空自衛隊に入隊しました。ここから源田実氏は航空自衛隊の育ての親と言われ、ブルーインパルス創設に奔ります。

今回はここまで、次回は剣部隊の仲間達のその後と源田実氏を紹介します。

その20に続きます。

文責 神奈川県 神奈川のY

3 件のコメント

    神奈川のY

    2024年12月15日

    あしたのジョージさま、コメントありがとうございます。源田実氏はブルーインパルスにて航空自衛隊の士気高揚と人々に希望を与えるため、戦後のオリンピックで初の航空自衛隊で五輪を空に描いたそうです。またブルーインパルスの操縦は難しく、かつての剣部隊の魂を継承していると感じました。まだまだお付き合い頂けると幸いです。
    パワーホールさま、コメントありがとうございます。源田実氏は今の男系固執議員より尊皇心があり、陛下の大御心を感じられる人ではないかと思いました。腹を割って話せば女系も女性天皇にも理解出来たのではと、既にいないので聞けませんが、そんな気がする可能性を感じます。実証出来ず残念ですが。

    パワーホール

    2024年12月15日

    「陛下御自らの大御心であることが充分納得出来て今帰って来た。と言い、之以上戦を続けるとは不忠の臣となる。」
    源田氏のこの言葉を男系固執派に聞かせてやりたいです。

    あしたのジョージ

    2024年12月15日

    ブルーインパルスの名称は、原爆投下の青い強烈な閃光を見た隊員の証言から原爆の事を忘れない為に命名されたんですね!
    初めて知りました。
    終戦になってもまだ信じられないみたいだった源田実氏でしたが、高松宮宣仁親王の説得でようやく納得したみたいですが、それは簡単には受け入れられなかっただろうと思いました。
    仲間達が次々と壮絶な闘いの上で死んでいったのですから。
    戦後色々あって、航空自衛隊に入隊されたのも運命的だと思いました。
    色々とわからない事だらけで、勉強になりました。
    次回を待ちます。

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