今回は台湾との関係に尽力した源田実氏をご紹介になります。
本文の前に、皆さま、改めまして新年の挨拶をさせて頂きたく思います。
明けましておめでとうございます。今年は・・・
スッ(何かがYに入ります。)
Y?:「新年明けましておめでとう諸君! 今年は君らの正念の場であり、乾坤一擲の戦いになるだろう、各自奮励努力し、見敵必戦であたりたまえ!諸君の健闘を祈る!」
Y??:「男系固執、男尊女卑とウダウダ言っている奴らは遠慮なく叩きのめしてやれ!」 (何かがYから抜ける。) ・・・
以上、新年の挨拶でした。以下本文に 入ります。
引き続きまして、自民党議員で色々巻き込まれる源田実氏をご紹介します。(前回のあらすじを含みます。)
源田実氏は自民党の議員になり、色々政治に関わっていきます。軍人政治家として国防については直言し、皇室に対しての悪質なバッシングに異議を唱えて政治に望みます。また、1960年代後半、中華人民共和国が核を保有したとあり、それを受けて源田実氏を中心とする政治家は、危機感持ちます。この頃毛沢東が打ち出した「大躍進」政策による飢饉で、全国の人口が前年比で1000万減少しましたが、後に徐々に力を回復してきて軍事に力を入れて来ました。
源田実氏は、外務省に安全保障の観点から核燃料サイクルによる核戦力のオプションについての議論を働きかけ、「日本が核兵器を持とうという議論ではなく、将来有事の際に核のオプションを失ってはいけない。安全のためいつでも核武装できる体制を維持していこうという議論であった」とあります。
源田実氏は信念を持っていましたが、議員会館に呼び出されて断念させられたそうです。また、源田実氏は、1978年に行われた、共産主義国家の中華人民共和国との日中平和友好条約締結に関わります。 それと同時に自由主義国である中華民国(台湾)との日華平和条約を無期限に破棄を行う国会採決があり、それに反対したのは衆議院で林大幹・浜田幸一・中山正暉の3名、参議院では源田と玉置和郎の2名だけだったそうです。この5人は台湾では「三勇者二賢人」と取り上げられたとあります。 (第84回国会 参議院 内閣委員会 閉会後記事、 ウィキペディア参照。)
この頃、源田実氏はメディアでも活動し、 映画「太平洋の翼」に関わったり343空をモデルにした話を出し、晩年には色々な本を出していきます。
さて、自民党においてある転機がこの頃から起きます。自民党と統一教会との関係が深くなるタイミングに源田実氏もいました。 この頃、統一教会のもう一つの顔で日本に存在したのが、国際勝共(しょうきょう)連合という組織です。 自由民主党とは反共産主義の活動を通じて長年協力関係にあったそうで、1970年代当時の自治省の資料から自民党に多額の政治献金および借入金を提供していたことが認められる仲でした。源田実氏が自民党にて旧統一教会と関わっていたところは、1982年に統一教会と世界勝共連合が刊行する日刊紙「世界日報」に「風鳴り止まず」と題する回想記を329回にわたって連載したとあります。
当時、源田実氏は左翼、共産主義の力を警戒し、彼らに対抗するには愛国心ある人材を、抗える力を欲し、日本を護る手を増やそうと連載していたのではと伺え、源田実氏は今の統一教会ズブズブの自民党議員みたいにお金や名誉で書いたのではなく、共産主義を止める一手として利用した感があると思いました。
また、源田実氏は政治家になっても、亡くなった軍人達を忘れず色々動きます。1978年には11月に、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1945年、7月24日の未帰還機と思われる343空の紫電改が発見された後、諸々の危険性から引き上げに各方面は消極的であった中で、元343空隊員や遺族からの引き上げてほしいという願いを代表し、源田実氏と自衛艦隊司令官・相生高秀(元343空副長)が各方面に働き掛け、引き上げる事が出来ました。この時、343空関係者が集まり、慰霊式が執り行われ、源田は「紫電改は浮上した今何事も語らずただ黙々と翼を休めております…」から始まる弔辞を読まれたとあり、晩年も司令官としての姿勢を持っていたと伺います。
政治に奔走した源田実氏ですが、1986年(昭和61年)の7月、議員を引退しました。旧海軍勤務が24年だったことから「これ以上やれば海軍に義理がたたない」という理由や、引退の弁は「足るを知れば恥ずかしからずとどまるを知れば危うからず」「腹八分目」「物事はほどほどに」であったそうで、コメントを求められると悪口も言えんと言葉は少なかったそうです。
ただ、国防に関しては「海外派兵はやらない、原子力潜水艦は作らない、それで通りますか」と語ったとあります。晩年の源田実氏は、厚木市愛名の自宅近辺を愛犬と散歩する姿がよく見かけられたそうで、体調を崩した後、343空の思い出の地である松山で療養し、85歳の誕生日を迎える前日、44回目の終戦の日でもある1989年(平成元年)8月15日、愛媛県松山市南高井町の南高井病院で脳血栓症のためこの世を去りました。84歳でした。
源田実氏は今は故人ですが、彼を追っていくと、彼の本からは自分の戦歴や戦争については冷静に淡々と分析した参謀らしい文調が観られますが、事に343空の下りや菅野直大尉達のところを観ると、すっごく愛があり、親バカと思えるくらいの力が入っていて、この人、すっごい面白い変なオヤジ殿だなと伺えます。
今回はここまで、次回は剣部隊振り返りと剣部隊の幻の歌で締めようと思います。
最後までよろしくお願い致します。
文責 神奈川県 神奈川のY
3 件のコメント
神奈川のY
2025年1月6日
基礎医さま、あしたのジョージさま、コメントありがとうございます!源田実氏は自民党の中で異端児だったようです。
基礎医さま、源田実氏はまともな保守派だったみたいです。閉会後の記録の文脈に源田実先生は・・・と出てたりして、上からは扱い難しい存在だったかもしれません。
またこの時の閉会記録の会話が結構面白く、自衛隊の事や日中ソの話、防衛の話があり、戦闘発生の場合や戦闘パイロットの指揮云々とあり、また戦中派の議員のやり取りで「うちの戦艦は・・・って君が戦艦って言うから言っちゃったじゃん!護衛艦は・・・」のくだりがあったりします。
あしたのジョージさま、私も源田実氏は合理性ある喰えないタイプと思われ、たぶん統一教会に埋伏の毒(敵の中に味方を増やす算段)を仕込んだのではないかと思っています。源田実氏は孫子などの兵法を好んでいたようなので、そう感じました。
また、脱線になりますが、源田実氏の性格ですが、343空の事になると文脈は生き生きして、菅野直大尉達を親バカと言えるほど愛してた感があり、ライバルの柴田司令とは零戦の事で喧々諤々と論じたり、お互い「おう、シバ!」
「おう、ゲン!」と言ったりするところがあったりと不思議な人だと思いました。
最後まで読んで頂けると幸いです。
あしたのジョージ
2025年1月6日
源田実氏と統一教会との関係性は、よくわからないですが、利用出来るところは利用してやろうというような打算的な考えだったのかなぁとなんとなく思いました。
他の議員達とは違う考えで付き合っていたのかなぁと思いました。
議員引退後の晩年は、静かに暮らしていたと思いますが、亡くなられた日が終戦の日とは、なんたる偶然というか必然というかわかりませんが、運命的なものを感じてしまいました。
あらゆるものとずっと戦い続けてきた人生だったと思います。
一足先に逝った戦友たちと共に向こうで仲良くやっていて欲しいですね。
基礎医学研究者
2025年1月6日
(編集者からの割り込みコメント)いや、なるほど。軍人出身とはいえ、源田実はこうしてみると、決して武断派ではありませんね。でも、戦力の保持や行使は否定しない。単純にどちらかにつく、みたいなことをするのではなく、国益を考えて均衡を保つ考え方。これって、まさに保守ではありませんか?そのように、思えました。