*今回は、皇室の話は直接でてきませんが、阿南大将が、天皇の忠臣であった乃木大将の薫陶を受けていたという流れは、興味深いのでは(by基礎医)
改めてですが、皆さま、阿南惟幾氏をご存知でしたでしょうか?
人によっては映画等で何か徹底抗戦!と主張した怖そうな軍人や、または遊就館に展示された遺書を書いて終戦の責任取って切腹した人、という印象でしょうか?
この方、自伝とかなく、生粋の軍人肌の黙して語らずな人物のようで、あまり自己主張してアピールしていないと伺えるところがありますが、その人となりは様々な伝えから彼の背中を追えます。
彼の名は阿南惟幾(あなみこれちか)、1887年の2月21日にて東京で生まれました。
父は警察官で、西南戦争にて抜刀隊として従軍した武人肌の家庭でもありました。抜刀隊には阿南惟幾氏の父はじめ、元新選組の斎藤一がいたとか。また、陸軍には乃木大将や児玉源大将がいたと言われ、敵と見なされた薩摩方にも英雄、西郷隆盛や桂小五郎、村田新八など文字通り、双方血肉湧き踊る戦の猛者達の息遣いがまだ聞こえる濃い頃です。従軍後、父は内務官吏として転勤を繰り返したため、阿南惟幾氏は幼少時は東京、大分県竹田市、徳島県徳島市などを転々としながら育ったそうです。また、兄弟は8人いて、阿南惟幾氏は末っ子でした。また、警察官である父は阿南惟幾氏に剣道、弓道、馬術など武術を小さい頃から教え込み、阿南惟幾氏は中でも剣道が好きであったとあります。また、阿南惟幾氏は小柄な体格ながらも、屈強な大人達と鍛えられていたので、(今の警察署の道場のようなイメージが近いかも)心身共に腕を上げていったそうです。
また、阿南家族は乃木大将と家族ぐるみの付き合いがあり、乃木大将が視察に来た剣道の試合で、
阿南惟幾氏が自分より大柄な人に立ち向かって勝ったのを観て一目置き、幼年学校を勧めたというエピソードがあります。幼年学校とは、日本帝国陸軍の、選抜された満13歳以上・満15歳未満の男子(主に旧制中学校2年生)を、将来の陸軍現役兵科将校として教育するために設けられた全寮制の教育機関を指します。なんと切腹の授業もあり、軍人としての生き死にが詰まって学びます。
阿南惟幾氏は乃木大将との付き合いもあり、幼年学校通ってからも一緒にご飯を食べたり、話たりと乃木大将の背中を観て、自分もこうなりたい!と軍人とは何かを学んで行きます。
乃木大将も明治天皇から信頼厚く、また、寒い時は暑いと思い、暑い時は寒いと思え、という言葉を残した人でもあり、自分にも他人にも厳しくも、そっと情に乗せて他者を想い、全力で任務を全うに務め、明治天皇を想う気持ち強く、最期も共にと歩いた忠臣であり、阿南惟幾氏と響き合ったかもしれません。
1900年の9月に阿南惟幾氏は広島陸軍地方幼年学校に入校しました。大物は大物を呼ぶのでしょうか?同期生に、マレー作戦にてマレーの虎と呼ばれた山下奉文大将、北シナ方面で活躍した岡部直三郎氏、語学堪能で次官を務めたり陸軍大学校の校長務めた山脇正隆氏がおり、憲兵をまとめた憲兵司令官の藤江恵輔氏もいたため、優秀と呼ばれたとあります。ちなみにみな陸軍の大将です。
また、小柄だった阿南惟幾氏の背はぐんぐんとのび、当時としては長身の1m70cmに達していたそうです。また、このときの阿南惟幾氏の憧れの乃木大将は、日露戦争にて第3軍司令官として旅順攻囲戦を指揮し、さらに武名を高めて国民的な人気を博した時で、乃木大将の凱旋行進を、阿南惟幾氏は一般国民に交じって街道に並んで見送っていたとあります。
今回はここまで、その2に続きます。
文責 神奈川県 神奈川のY
3 件のコメント
あしたのジョージ
2025年5月7日
阿南惟幾氏の事は、初めて知りました。
勉強させてもらいます。🙇
神奈川のY
2025年5月6日
基礎医さま、コメントありがとうございます。乃木大将の軍人の生き方を学んだ阿南大将ですが、最期まで色々色濃く乃木大将の背中を観て学んだのかなと思いました。
乃木大将と明治天皇、阿南惟幾氏と昭和天皇、どちらも尊い関係と推察します。
基礎医学研究者
2025年5月5日
(編集者からの割り込みコメント)個人的には、阿南大将が乃木大将の薫陶を得たエピソードがよかったですね。そこで、尊皇心が大きく育てられたのではないかと、推測します。