
戦国末~織豊期に活躍した津田信澄を御存じでしょうか。信澄は織田信長の甥(弟・信勝の嫡男)であり、初陣の越前一向一揆征伐を皮切りに各地を転戦し、明智光秀の丹波攻略に参戦した縁から光秀の娘を正室とし、近江国高島郡を与えられて大溝城(設計は光秀)主となり、石山合戦(織田軍VS大坂本願寺&毛利軍)では一向宗門徒の退去を見届け、京都馬揃え(※正親町帝の求めに応じて光秀が京で挙行した軍事パレード)では織田一門衆の第5位(①信忠・②信雄・③信包・④信孝・⑤信澄・⑥有楽斉)に列しました。その後、織田信孝&丹羽長秀による四国攻略に参加すべく大坂に駐屯していた頃に「本能寺の変」(1582)が発生し、共謀を疑われた信澄は丹羽軍に討たれ、首が堺の町に晒されました(※「寝返るなら今~2」参照)。
さて、宣教師Lフロイスの著した『日本史』は偏向の無い資料だとされますが、彼の評価基準は「親キリスト教か否か?」であり、キリスト教を庇護した織田信長は「稀に見る優秀な人物」「大いなる賢明さ」と絶賛され、信長を誅殺した明智光秀は「裏切りや密会を好む」「残酷」と酷評され、豊臣秀吉は天下人となって伴天連追放令(1587)を出すまでは信長に準じる高評価でした。そのフロイスが津田信澄を「異常なほど残酷で、皆が彼の死を望んでいた」と罵倒しましたが、これは親キリスト教だった信孝を相対的に持ち上げる意図ゆえだと筆者は考えます。
またフロイスは「信長が絶対君主となった暁には明を武力で征服する考えだった」と記し、その野望を継承したのが秀吉の朝鮮出兵(1592~)だった可能性があり、一方で当時のポルトガル(葡)とスペイン(西)がアジア侵略を企てていた事実を思えば、日ノ本と明国を争わせて西葡が漁夫の利を得る計画を邪魔した光秀は絶対に許せなかったはずです。
ところで現代日本にも似た構造があります。政治家の裏評価基準は「トゥルーマザー(韓鶴子)に従うか否か?」となり、失言による日本国と中国の仲違いが米韓に漁夫の利をもたらし、悠仁様の代で天皇制を終了させる計画を持つカルト教団が日本国の選挙を牛耳り、やがて国事行為が行えずに日本が国家の体を為さなくなったら、近隣諸国による共同占領統治も予想されます。であれば、「敵は永田町に在り!」と叫んで高市を襲わないまでも、統一協会と繋がる自民党候補を全て落とす勢いで中道改革連合に票を集めるしかありません。
文責:京都のS
2 件のコメント
京都のS
2026年2月2日
コロナ自粛禍のせいで大河ドラマ「麒麟がくる」は全48回から44回に減らされたと思われます。もし45分×4回も多ければ、おそらく光秀が主催した「京都馬揃え」も描かれたはずです。娘婿の津田信澄も描かれ、信澄の悲劇的な最期まで描かれたかもしれません。もし信澄が信孝・丹羽軍と戦っていなければ、堺で休暇を取っていた徳川家康は織田信孝&丹羽長秀に襲われて殺されていたかもしれません。家康の「伊賀越え」は明智軍から逃れるためと説明されますが、信長亡き後は各プレーヤーが自分以外の天下人候補を排除していくことが取るべき戦略となります。だから当然ながら信孝は家康を殺しにかかります。日本史は全く違ったものになっていたでしょう。
そして4回増えて最も変わりそうな点は、劇中の信長が言った「大きな国をつくるのじゃ」の中に日本列島を超えた明や朝鮮が含まれていることに明智十兵衛光秀が気付き、それがポルトガルの陰謀に乗せられていることにまで思い至ったから、本能寺を襲うしかなかったという描写にも踏み込んだ可能性があります。それがj必玄しなかったことが悔やまれてなりません。コロナ自粛の戦犯どもめ…。
京都のS
2026年2月2日
ふぇい様、掲載ありがとうございます。反時代的な秀吉ネガキャンです(笑)。他は以下です。
・「豊臣家の諸問題から我々が学ぶべきこととは?」( https://aiko-sama.com/archives/65615 )
・「ダンケーさん、寝返るなら今だと思いますよー(棒) season2」( https://aiko-sama.com/archives/65949 )