昨日高野あつし氏と竹田恒泰のやりとりをブログにしました。
その後のやりとりです。
竹田恒泰さん、
— 高野あつし(元警視庁捜査1課刑事·元外交官) (@takano_nara) March 21, 2026
丁寧なご返信ご説明頂き誠にありがとうございます。
●言及されない慣習法は無い
慣習法も当然法源ですが、その慣習法の存在自体については当然、歴史的に多数の言及があるはずです。… pic.twitter.com/5eFqnTPV2a
竹田恒泰さん、 丁寧なご返信ご説明頂き誠にありがとうございます。
●言及されない慣習法は無い
慣習法も当然法源ですが、その慣習法の存在自体については当然、歴史的に多数の言及があるはずです。
「男系が皇統の最大の価値」であれば、それについて記録社会の日本、膨大な歴史的資料に溢れる日本で
皇統の正統性の議論か盛んだった南北朝時代を含み、明治まで一切言及がないのは、極めて不自然では無いでしょうか?
最大の価値について歴史上の幾千万の方々が明治まで皆口をつぐむのでしょうか?
●そして明治政府が最初の皇室典範案で、
男系女系区別せず、
女性天皇を容認する案を作成したことは
「男系こそが皇統2700年の価値として大切に守られてきた」
ならば、あり得ないので無いでしょうか?
●おっしゃるとおり、継嗣令だけで実態は進まなかったとおり
日本の皇位継承は、様々な政治勢力の影響を受けながら
「基本天皇に近い(3世程度)男だけど昔は女性もいたよね」
程度の緩い理解だからこそ続いた、
「結果としての、たまたま男系」
が基本だった、のでないか?
との疑問をぬぐう歴史的根拠が少なすぎます(禁中並公家諸法度の養子規定程度)。
「男系の実態があった」のは事実としても、それが、
=「皇統の最大の価値として守られ続けてきた」
という歴史的証明が、「誰も口に出さない慣習法だった」との主張だけでは、あまりに薄すぎると思います。
●継嗣令について諸説あることについてはもちろん承知しております。
●最後に付記しますと、
ご存知のように、皇室は古来から多くの変化を受け入れながら現代に至りますが、
「皇統の最大の価値は何か
何が大切で何を変化させるべきかは」 皇祖からの歴史を背負い、未来へ皇統を続ける責任をもっとも感じておられる、
上皇陛下、天皇陛下のご意見がもっとも尊重されるべきと考えます。
即位20周年での上皇陛下のお言葉
「皇室の将来の在り方については、皇太子や、それを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と考えています。」
を陛下の藩屏たろうとする方々、陛下の藩屏であることが存在意義のはずの方々は、実現に向いて動いてこそ、だと思っております。

・「男系は伝統だ」という最大の価値について歴史上の幾千万の方々が明治まで皆口をつぐむのはおかしい
・「男系は伝統で護らなければならない価値」なら、明治政府が最初の皇室典範案で男系女系区別せず、女性天皇を容認する案を作成するわけない。
・上皇さま、陛下、秋篠宮さまの想いを実現することが一番大事ではないか。
こちらの主張、もっともですね。
竹田恒泰は何と返したか。
当たり前過ぎることは記録されないというのは、考古学や史学を学ぶ者にとっては常識です。
— 竹田恒泰 (@takenoma) March 21, 2026
例えば、江戸時代の生活について、外国人が記した手記で初めて明らかになったことは山とあります。… https://t.co/Ntyh0cfS8S
当たり前過ぎることは記録されないというのは、考古学や史学を学ぶ者にとっては常識です。
例えば、江戸時代の生活について、外国人が記した手記で初めて明らかになったことは山とあります。
鎌倉時代の順徳天皇が記した『禁秘抄』に、初めて天皇の心得などが記述されました。天皇の心得は、天皇にとって最重要のことですが、鎌倉時代まで文字化されることはありませんでした。当たり前だったので、わざわざ文字にしなかったのです。その当たり前のことを書いた『禁秘抄』のおかげで、いま私たちは文字として読むことができるのです。
文字になっていないから、価値が低い、規範にはならない、ということにはなりません。長きに渡り男系継承が続いてきた歴史の重みは、言及の回数や、文字化された時期によって変化するものではありません。
それに、男系継承をこれだけ長期間続けてきたのが、「たまたまだった」という主張に納得する人はいないでしょう。
歴史を振り返れば、先人たちが男系継承を守るために、議論を重ね、努力してきたのは事実として記録されています。
例えば、光格天皇即位に際しても、千年以上遡り、皇位継承の危機について先例を調べ上げ、先例に従って男系継承を確保しました。当時の議論が記された資料を読んだことがある者なら、「言及されていない」とか「たまたま」という理解には至らないはずです。
生半可な知識で論じようとするので、おかしな主張になるのだと思います。皇室について語るのであれば、また皇室を尊重するのであれば、慎重に慎重を期し、それなりの見識を深めてからになさることをお勧めします。
ちなみに、祭祀が男系により確保されるべきことは古事記に記載がありますし、男系による皇位継承の記録も古事記にあります。皇位の継承は祭祀の継承を主とするため、皇位継承に関する大原則はすでに古事記に記されているのです。
また、宇佐八幡宮神託事件でも、皇統とは何であるかが問題となり、「皇緒」を立てるべきとの神託の内容が続日本紀に記されています。
それ以外にも、皇統のあり方について、議論した記録は多くあります。それらに当たってみてはいかがでしょうか。
また、明治の皇室典範では、男系男子で確定しているのが答えかと思います。議論の過程で女性天皇容認の案があったとしても、採用されていません。さらに、ここで貴殿が「女性天皇」の話題を持ち出すこと自体、女系天皇と女性天皇を混同しているのではないかと疑います。女系天皇(非男系天皇)を認めるかの議論と、女性天皇を認めるかの議論は、本質的に異なるからです。
・「男系は伝統だ」という最大の価値について歴史上の幾千万の方々が明治まで皆口をつぐむのはおかしい
→当たり前すぎることは記録されない。男系継承の重みは変化しない
・「男系は伝統で護らなければならない価値」なら、明治政府が最初の皇室典範案で男系女系区別せず、女性天皇を容認する案を作成するわけない。
→男系男子で確定しているのが答え
・上皇さま、陛下、秋篠宮さまの想いを実現することが一番大事ではないか。
→完全スルー
男系継承の重みが当たり前にあるなら、なぜ明治に女性天皇の議論がはじまったのか。当たり前に男系継承で決まるんでない?
そして男系男子継承に決まったのって、「男を尊び女を卑しむの慣習人民の脳髄を支配する我国」が決定打でしたよね。
「不義密通」のある明治を覆っていた男尊女卑が決定打。
こちらの説明なく「男系男子で確定が答え」って?
とても気になります。
そして
皇統のあり方について、議論した記録は多くあります。それらに当たってみてはいかがでしょうか。
「自分で調べろ」 ですか。
長くなったので、その②に続きます。
文責 愛子天皇への道サイト運営メンバー ふぇい
4 件のコメント
SSKA
2026年3月22日
男系主義が当たり前なのではなく、政治や軍事を司るのに男性の(特に争いを主とした)能力が必要とされた時代だったから当主に選ばれ、それを実子や近い血縁で続ける世襲が尊重されたのが正しい歴史の解釈でしょう。
江戸時代の身分制やそれを上から下まで世襲の家柄が支える制度は今や全く当たり前ではない事くらい考えれば分かります。
男系主義とは所詮は社会の枢要な役目や地位に男が多く求められた時代の古い名残を指す程度のものに過ぎません。
L.K
2026年3月22日
時代の流れに取り残された奴がいう常套句。
シナ男系主義や側室制度が「当たり前」でなくなり「当たり前」の前提が崩壊したのだから、新しい状況に応じて変えるべきは変えなければいけなくなるのは「当たり前」のことだろう。
時代の流れに応じて変わろうとされているのが、他ならぬ上皇陛下や天皇陛下を始めとする皇室の方々。
思考停止して、前時代の「当たり前」に固執するのは皇室の方々のご意思を無視するのに等しい。
皇緒=皇統で、男系に限定していない。
光格天皇の例など、天皇陛下は皇位継承の危機として歯牙にもかけられていない。
上皇陛下のおことばの紹介を受けての返事がこれか?
上皇陛下や天皇陛下よりも自分の方が天皇の歴史に詳しいとでも?
あまりにも不誠実。
不敬、思い上がりも甚だしい。
突撃一番
2026年3月22日
「禁秘抄」が解説してる有識故実って、古く見積もっても平安時代以降に成立したものでしょ?
奈良時代以前から「アタリマエ過ぎて誰も言わなかった」とは、とても思えないね。
皇位継承ルールも、それと同じ。
群臣推戴
↓
世襲確立
↓
先帝意思による譲位
↓
皇太子制度の確立
•••といった感じで時代によって変化してるのだから。
あまつさえ、「男系継承」なんてもんが古代から一貫して「アタリマエ過ぎて誰も言わないくらい不変のルール」だったわけないじゃん。
京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)
2026年3月22日
何故「たまたま男系が続く」という現象が起こったかと言えば、まず①摂関政治のせい、次に②武家政権のせい、そして③明治典範のせい、という3段階に分けられると思われます。
①の段階は、藤氏長者(藤原宗家のトップ)が自分の娘と皇太子とを娶せて間に生まれた皇子を即位させ、そうして自分が政の実権を握るためです。また皇室よりも諸豪族の方が先に儒教的男系主義や儒教的男尊女卑に毒され、女子を氏長者から外してしまったことも重要です。
②の段階では、内戦が続く中で武力に優れた武士(♂)が力を伸ばし、畿内の朝廷に対して武士が関東に軍事政権(幕府)を開く事態となり、儒教の一般化も相まって男性性のプレゼンスも幕上がりしたため、摂関政治(藤氏長者のための男系主義)の悪影響から抜けきれない皇室が男系主義を排除しきれなかったからです。
③の段階では、室町後期から江戸期までの300年ほどの間に人民の脳髄が男尊女卑に支配され、そうした空気が明治期の軍国化も相まって蔓延したため、そこを一気に変革する胆力が明治期の政治家や官僚に無かったからだと考えられます。