グリル厄介者vol.4(後編)

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サトルです
前編のつづき。

今回は、みなさんとともに、もう少し奥へ歩んでみたい。

特に今回、強く感じたのは、「憲法論の掴み方」である。今回、ここで言う「憲法論」という場所は、本来、

・国際法     ・自主防衛 ・占領
・アメリカ依存  ・憲法解釈 ・交戦権
・核抑止     ・同盟   ・国家観

など、掴みどころが無数に存在する。だから本来、多方向から見える場所のはずだ。

しかし気を付けないと、掴み方によっては、一面しか見えない場所へ、“いつのまにか”歩かされていく。

例えば今回、

へ、かなり滑らかに接続されている。

もちろん、個々の論点自体には、一定の接続性がある。
だから読者は、「なるほど、確かに今の日本は歪だ」という感覚になりやすい。

ここまでは、かなり自然に読める。

だが本来、

・自主防衛とは何か
・現代安全保障とは何か
・日本単独で何が可能か
・国民負担をどうするか

など、

巨大な中間論点が存在する。

ところが、文章全体の流れが滑らかなため、読者は、理解についていくため、次々現れる枝葉に掴まりながら進んでいく。

そして気づくと、

“いつのまにか”門の前に立っている。
手応えの無い滑らかさは、時に、人を“いつのまにか”運んでしまう。

そして多くの読者は、そのままごく自然に、歩みを止めないだろう。ここは、かなり慎重に読まないと危うい。

もちろん、論を組み立てる以上、一定の接続や整理は不可避である。

ただ、滑らかに接続される論理ほど、「途中で省略された論点は何か」を、一度立ち止まって確認した方が良いと思う。

読みやすいことは、解答ではない。

以上


今回も、ありがとうございました。日本国憲法の中でも、9条の問題は、外国の憲法と比べても特異な点があるので(*自衛のための戦力を放棄する、という点)、どうしても注目が集まる。倉山が、「しょうがくせいにでもわかる・・・」とか扇動的な書き方はしていますが、「でも、自衛隊って戦力だよね?」や「解釈でアメリカにどこまでついていくのか?」いう小学生でも感じる疑問は、読者を森に誘いやすいのだろう。ただ、法の支配という多方面からの観点をバッサリ切って、”滑らかに接続される論理”には警戒感を持った方が良い、という理屈は、そのとおり。これは、現在の皇位継承問題の議論で、立法府の議論は「悠仁さままでは、ゆるがせにしない(すでに順位が確定しているから)」や「悠仁さま1人になると、皇室の存続はゆらぐ(だから、皇族数の確保が必要)」のような前提が設定されて話が進んでいくのと、通ずるものがある、とみました(by基礎医)

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