元正天皇ゆかりの地・養老の滝と養老神社 継嗣令の養老律令 女性天皇が次々誕生する日本の国情に合わせて改正

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愛子さまが伊勢神宮にお出ましになっている頃、元正天皇ゆかりの地を訪れました。

駐車場から20分ほど登坂になっている参道をたどって、まずは養老の滝へ。

「養老の滝」は、孝行息子の物語として「まんが日本昔ばなし」にも登場、
東海地方在住の方は、ご存じの方が多いかなと思いますが、如何でしょうか。

「老父を大切に養っている男が、多度山に登って薪を取っていたところ、
甘い匂いが漂ってきたので、岩間の泉を飲んでみるとお酒の味がした。
ひょうたんに汲んで持ち帰り、老父に飲ませると髪は黒くなり皺もなくなった」

ここまでは何となく覚えていたのですが、「養老の滝」に行くと決めてから、
周辺情報を調べると、近隣の「養老神社」に御祭神として祀られている
元正天皇が、当時、この不思議な出来事を奈良の都でお知りになり、
多度山に行幸されているらしいと分かりました。

「元正天皇は、霊亀3年(717)9月、近江国を経て美濃国当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山の美泉を見、駕に随う国司らに物を与え、不破・当耆・方県・務義諸郡の百姓に減税などの恩恵を施した。同年11月には詔勅を出し、この多度山の美泉について、病が癒えるなどの効験が大きく、これは大瑞であると述べ、養老への改元を布告した。このような美濃への行幸と養老改元については、当時、美濃守であった笠朝臣麻呂と美濃介藤原朝臣麻呂の果たした役割が大きかったと考えられているが、多芸郡の地が行幸の対象とされ、そこの「美泉」が政治的にも重要な意義をもっていたと考えられる。行幸の際に行宮が造られたとされるが、その場所は不明である。また、「美泉」が何を指すのかについては、養老の滝と現養老神社内の湧水との二説がある。
岐阜県HP

養老の滝で、清涼な雰囲気を味わってから、参道を下って、養老神社へ。
「愛子さま立太子」を祈念しました。

元明天皇は、この地にちなんで、「養老」と改元されたとのこと。

女帝子亦同」との条文のある「継嗣令」を含む「養老律令」に冠された元号が、
歴史上、女性天皇だけでなく、女系天皇も存在しているという根拠となる
天皇が御幸された名勝、昔ばなしなどで親しんだ地に関連していたことに驚くと共に
「あ、それならば、養老律令って、元明天皇の時代に作られたの?」という
疑問が湧いたので、養老律令 ウィキペディア を見てみると・・・

養老律令・・・701年(大宝元年)、藤原不比等らによる編纂によって大宝律令(持統上皇の元で政務を行っていた文武天皇(697-707)の即位前後に編纂開始)が成立したが、その後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修(改修)作業を継続していた。718年(養老2年)に各10巻の律と令が藤原不比等により撰(せん 選ぶ)されている。ところが、720年(養老4年)の不比等の死により律令撰修はいったん停止することとなった。その後、孝謙天皇の治世の757年5月、藤原仲麻呂の主導によって720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。これが養老律令である。

元明天皇から皇位継承した元正天皇の治世で編纂が行われ、孝謙天皇の治世で完成。
律令・法律には、当時も女性天皇が輩出する日本の現状に合わせて
改正する努力が積み重ねられていたのだと強く感じました。

(非常に美しかったという元正天皇が讃えられた美泉とは、滝だったのか、↑この霊泉だったのか)

そして、古代において成し遂げられたことならば、現代においても可能であることを
歴代天皇方に教えていただいていたように思います。

もちろん、再改正には一刻の猶予もなりません。

「愛子天皇への道」サイト運営メンバー まいこ

1 件のコメント

    京都のS

    2026年8月13日

     まいこ様、素晴らしい紀行文にして歴史論文でした。元正女帝の養老への行幸が「養老律令」(※「女帝の子も亦同じ」の本注を含む養老継嗣令)の名称の元ネタとなったことに驚くと共に、また律令の制定や改正に関わったのが持統・元明・元正・孝謙といった女帝ばかりだという事実が、他の東アジア諸国とは一線を画すことを再確認できました。
     歴史を軽視する自称保守(ネトウヨ)らの好きにさせていてはいけませんね。

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