続きます。
7 竹田家の経験談も、同じ働きをしていないか?
竹田氏は、自身の家の葬儀に勅使が来られた経験も紹介しています。
勅使が来ることが、どれほど重いことなのか。
これは竹田氏自身の経験ですから、その経験を語ること自体に問題はありません。そして聞く側にも、「勅使というのは、それほど重いものなのか」という実感を与えます。ここでも、話としては非常に強い。
でも、それによってわかるのは、竹田氏が勅使をどれほど重く受け止めたかです。そこから、だから靖国神社への勅使は御親拝と内面的に同じとは、まだ言えません。
まして、だから天皇陛下のお気持ちは以前と変わっていないとも言えません。
また同じです。強いエピソードが、別の問いに対する証明の代わりになっていないでしょうか?
8 「無限大」にすると、違いを検討しなくて済んでしまう
竹田氏は、御親拝と勅使・遥拝の価値について、30兆円と50兆円のような比較ではなく、どちらも「無限大」のようなものだ、という趣旨の比喩も使っています。
これも、聞いた瞬間には強い。
無限大と無限大。どちらも途方もなく大きい。だから本質的には同じだ。
……でも。
それは比較した結果でしょうか?
それとも、比較する前に、両方へ「無限大」という同じ札を貼っただけでしょうか?
御親拝と勅使。御親拝と遥拝。それぞれ形式が違います。ならば本来は、何が同じで、何が違い、その違いが今回の問題にとって重要なのか重要でないのか
。そこを検討して、「違いはある。しかし今回の論点では、その違いは本質的ではない」と論証する必要があります。
ところが最初から両方を「無限大」にしてしまえば、違いを検討する工程そのものが消えます。
これは便利ですね。
*なるほど、論理ではなく、印象だけを残したいということですね(by基礎医)
でも、便利だから正しいとは限りません。
9 そしてなにより、いちばん手前の事実確認はしてありますよね?……
さらに私は、もっと手前でも止まります。
竹田氏の論証では、天皇陛下が御所から靖国神社を遥拝されているという話が、かなり重要な役割を担っています。
ならば、まず確認したい。
その事実は、何によって確認できるのでしょうか?
勅使が靖国神社へ遣わされていることと、天皇陛下が御所から靖国神社を遥拝されていることは、同じ事実ではありません。
ここを確認しないまま、「遥拝されている」→「お気持ちは変わっていない」→「御親拝と内面ではまったく同じ」まで行けば、最初の橋脚が確認されないまま、ずいぶん長い橋を架けることになりますが?……
※靖国神社への勅使差遣は政府答弁等で確認できます。一方、今回確認した宮内庁・国会・政府の一次資料では、「天皇陛下が御所から靖国神社を遥拝されている」とする記録は確認できませんでした。
10 話が上手いことと、論点が繋がっていることは別
竹田氏の話は、聞き手を納得させる材料が次々と出てきます。
勅使の重み。竹田家での経験。英霊の立場。ありがたいという感情。30兆円、50兆円。無限大。政治問題を避ける工夫。
一つ一つ、話としてはわかりやすい。だから聞いているうちに、「なるほど。だったら御親拝されなくても同じなんだ」という気持ちになる人がいても不思議ではありません。
でも、最初の問いかけは何でしたか?……
御親拝されなくなった理由はわからない。
そこから始まりました。
ならば、「英霊ならありがたいと思う」ことによって、その理由がわかったのでしょうか?「勅使は非常に重い」ことによって、天皇陛下のお気持ちが以前とまったく同じだと確認できたのでしょうか?「どちらも無限大」と呼ぶことによって、御親拝と遥拝の違いが、本質的ではないことまで論証されたのでしょうか?
私には、そうは読めません(聴けません)でした。
*どちらかというと、事実関係で検証されたというよりは、竹田氏の印象でつながっていた、というようにみえます(特に、話がうまいとそうなる)。(by基礎医)
11 「それ、誰と話してますか?」
今回、私が一番引っかかったのはここです。
竹田氏は後半、「そこまでしていただいているのに、それでも直接来なければダメだと言うのか」という、非常に反論しにい場所へ視聴者を連れていきます。
でも、誰が、その主張をしていたのでしょう?
問題は、「英霊が、勅使や遥拝では満足しない」ことではありません。少なくとも、竹田氏自身が最初に提示した問題はそこではなかった。
だから私は、その相手を論破しても、最初の問いへの答えにはならないのでは?と思います。
藁人形を倒したのかどうかは、まだ断定しません。
ただ、倒している相手が、途中から別人になっているようには見えます。
12 ここで、最初の場所に戻ってみた
竹田氏が提示した材料は、まず受け取る。そのうえで「継ぎ目」を見る。
すると、「理由はわからない」から始まった話が、「政治問題化を避けるため形式を変えた」になり、「お気持ちは何も変わっていない」になり、「御親拝と内面ではまったく同じ」になり、最後には、「英霊なら、そこまでしていただけば十分でしょう?」という話になる。
でも最後の問いに「はい」と答えたからといって、最初の問いまで「はい」になるわけではありません。
私はここで、またいつものところへ戻ります。
その話、本当に繋がっていますか?
そして今回は、もう一つ。
途中で、別の話にすり替わっていませんか?
みなさんは、どう思いますか?
今回も、寄稿ありがとうございました。最初に、自分から「問い」に答えていこうかと。たしかに、最初の問題、「なぜ天皇陛下は、御親拝されなくなったのか?」には、結局答えていないですね。論理を考えると、直接的であれ、間接的であれ、推測できる証拠を提示して答える、ということなのでしょうね!?だからもし自分でしたら、以下のように展開します「三木首相以来、首相の靖国参拝が政治問題になってしまった→歴代の首相はそれより参拝を控えるようになった→(政治問題化したことにより)陛下は政治問題への判断には関与しないので、御親拝されなくなった、と考えられる(しかし、本当の理由はよくわからない)。」。ただ、タケダはいきなり「よくわからない」と持ってきているので、たぶん自分の中では論証せずに終わりなのでしょう。で、いろいろいっていますが、自分には「天皇は外面がどうであれ内面は変らないのだから(と推測)、英霊には失礼にあたらない。ゆえに、天皇の御親拝の有無を論じるのは、無意味。がたがたいうな!」という「強いメッセージ」を言いたいだけのように見える(間でポンポン飛ぶ話しは、読者を喜ばすためのもの)。このような感じでしょうか?(by基礎医)