文字起こし 木村多江の、いまさらですが・・・飛鳥時代 〜3人の女性天皇と世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」〜

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「愛子さま排除法」成立の際に放たれた「2600年男系継承云々」妄言を粉砕する画期的な番組が放送されました。

木村多江の、いまさらですが・・・飛鳥時代 〜3人の女性天皇と世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」〜

文字起こしでもお伝えします。

木村多江氏
池田鉄洋氏
加藤小夏氏

義江明子氏

木村氏:今回のテーマは飛鳥時代。2026年、ユネスコの世界文化遺産に飛鳥・藤原の宮都がが登録されたことで注目されています。そして近年の研究では、この時代、多くの女性天皇が活躍したことがわかってきています。 そこで今回は 3人の女性天皇の功績と世界遺産飛鳥藤原の宮都を合わせて飛鳥時代を学び直していきたいと思います。皆さん、飛鳥時代というと何を思い浮かべますか?

池田氏:やっぱりね、大化の改新ですよ。中大兄皇子や中臣鎌足が蘇我入鹿を倒して改革したやつね。

加藤氏: あれ?これどうでしたっけ?蘇我入鹿を倒したのは乙巳の変ですよね。

池田氏:乙巳の変?何それ?

木村氏: 最近ではね、そう習うんですって。

池田氏:じゃあの聖徳太子は御健在でしょうか?

加藤氏:聖徳太子は最近では厩戸王(うまやとおう)と習いますよね。

池田氏:僕たちのヒーロー・聖徳太子がなんてこった…

木村氏:実はですね、飛鳥時代の研究はこの四半世紀の間で飛躍的に進んだんですよ。だから私たち、ちゃんとアップデートしないといけないわけです。

まずその飛鳥時代、おさらいしてきますよ。鳥時代は 6世紀後半から 8世紀前半にかけて、豪族を中心とした政治から、天皇を中心の中央集権的な律令国家へと「国づくり」をする時代なんです。 そして、当時の東アジアを取り巻く国際情勢と言いますと、中国や朝鮮の間で、とっても緊迫してたんです。

池田氏:だからしっかりとした国づくりを進める必要があったと。

木村氏:その通りなんです。当時、倭国と呼ばれていた日本は国としてはまとまりが弱かったんですね。ですから、中国や朝鮮の政治制度や宗教、文化を取り入れて国を強くしていこうとしています。

加藤氏:その国づくりの過程が分かるのが、ユネスコ世界文化遺産に登録された飛鳥・藤原の宮都の構成資産(律令制度に基づき、天皇を中心とした中央集権国家を確立したことを示す遺産として評価された)ですよね。

木村氏:そうなんです。そしてそんな時代に活躍するのが この女性天皇たちなんです。その一人目が日本初の女性天皇・推古です。ちなみに当時、天皇という名称はなかったので名前だけで呼びますね。

加藤氏:大王・だいおうとかおおきみって呼んでたんですよね。

木村氏:そうなんです。その推古と関係の深い人物が夫・敏達、そして叔父で豪族の蘇我馬子、そして甥っ子である厩戸王です。

加藤氏:当時、大王を選んでいたのが、蘇我氏をはじめとした豪族なんですよね。

木村氏:そうなんです。推古は18歳で敏達の妃になります。そして敏達が亡くなると次の大王継承争いに関わっていくんです。キーワードは 仏教です。ここからは小夏ちゃんのレポートを交えて推古について見てゆきましょう。

VTR

加藤氏:奈良県明日香村にある飛鳥寺。世界文化遺産飛鳥・藤原の宮都・19の構成資産の 1つとして登録されており、日本初の本格的な寺院でした。飛鳥大仏でも有名なこの寺院は、創建当時、現在の約二十倍もの敷地があり、国の一大プロジェクトとして作られました。この飛鳥寺をはじめとする仏教を取り入れることが推古や蘇我馬子が目指す国づくりにおいて、とても重要だったのです。

ナレーション:夫の敏達がなくなり、兄の用明も亡くなると主導権争いは推古こと額田部と母違いの穴穂部の間で激化。額田部には蘇我馬子、穴穂部には物部守屋がついていましたが、穴穂部は殺されてしまいます。すると 587年、蘇我と物部の全面対決・丁未の役(ていびのえき)が勃発。蘇我が勝利し、弟の崇峻が即位しますが、政治能力を豪族たちに疑問視され暗殺されます。これにより592年、実力と経験を兼ね備えた推古が即位。日本初の女性天皇が誕生します。この頃、中国では南北朝を統一した隋が建国され、高句麗などの周辺地域に進出して緊迫した状況を迎えていました。そんな中、推古は 2歳違いの叔父・馬子と政治を進め、594年には三宝興隆の詔(さんぽうこうりゅうのみことのり)を発令し、国として本格的に仏教を取り入れることを表明。 600年には隋と国交を結ぶため、約120年ぶりに使者を派遣しますが相手にされず、これまでの自然崇拝的で呪術的な政治手法が国際的に通用しないことを思い知らされ、さらなる改革を進めます。その改革とは603年、小墾田宮(おはりだのみや)を建造。この宮は隋から帰った使者の見聞を活かして作った、単なる大王の住まいではない儀礼空間を備えたものでした。そして冠位十二階を制定し、個人の才能や功績に応じて冠位を与え、家柄に囚われない優秀な人を発掘します。こうして、天皇を中心とする仏教を軸にした国際的に通用する国づくりを急ピッチで進めます。 607年には第 1回目の遣隋使とされる小野妹子らを派遣。翌年には妹子が隋からの国書と使者である裴 世清(はい せいせい)を伴って帰国。こうして念願だった隋との国交がついに開かれます。

加藤氏:ここは世界文化遺産・飛鳥藤原の宮都の構成資産の 1つ、石舞台古墳。この古墳は蘇我馬子の墓だと言われています。 推古と共に国づくりをした馬子は626年に亡くなり、その 2年後(628年)には推古も75歳で崩御します。亡くなる時に推古は遺言を残し、次の大王を推薦したと言われています。

スタジオ

池田氏:崩御する時に大王を推薦するって何か特別なことなんですか?

木村氏:特別特別。当時は豪族が大王を選んでいた時代ですよね。それなのに大王自らが次の大王を推薦するっていうのは、とっても特別なことだったんです。

池田氏:なるほど、つまりそれだけ推古の影響力が強かったってことですね。そういえば厩戸は、ほとんど登場しませんでしたが・・・

木村氏:実はですね、当時の豪族を納得させるには年齢って大事だったんですよ。600年だと厩戸が 26歳ぐらい。となると、600年頃までの厩戸っていうのは、まあそれほど政治的な権限がなかったと考えられるようになったんです。

加藤氏:でも、推古のキーワード、仏教という点においては活躍したんですよね。

木村氏:はい、もちろんです。法隆寺も建てましたしね。そして何よりも仏教への理解が深かったので、仏教におけるリーダーだったと考えられています。 この時代の仏教っていうのは大陸における最新の政治体制や文化を意味しているので、それを理解するっていうことは、国づくりの上で非常に重要だったんです。

じゃあ次の女性天皇、行ってみましょう。次は、皇極=斉明です。当時の国際情勢ですが、中国では隋を倒して唐が建国され、高句麗に侵攻をし始めます。当然、周辺地域には緊張が広がってきます。

加藤氏: せっかく遣隋使を送って外交が始まったのに。

池田氏:でも遣唐使を送るでしょ。

木村氏:遣唐使を送るのが皇極の夫・舒明ですね。舒明は推古の遺言もあって、蘇我蝦夷らに選ばれて即位するんですね。

池田氏:推古が推薦したのはこの人だったんですね。

木村氏:はい。舒明が亡くなると、その妻で敏達のひ孫でもある皇極が即位するんですけど、その後、大波乱が起きてしまうんです。キーワードはエポックメイキング。早速、皇極について見ていきましょう。いまさらですが・・・

ナレーション:642年、49歳で即位した皇極は「日本書紀」によると、大王としての強いパワーを持っていたそうです。干ばつが続いた年、雨を降らせようと蘇我蝦夷が僧を集め、御経を唱えるも効果なし。けれども皇極が祈祷をすると 5日間も雨が降ったと伝えられています。 しかし当時、実際の政治権力を持っていたのは蘇我氏でした。皇極即位の翌年、蘇我氏は亡き厩戸の息子・山背大兄を襲撃し、死に追いやると、厩戸の一族を滅亡させます。山背大兄は厩戸の権威と財力を継いでいたため、蘇我氏や皇極にとって目障りな存在だったのです。その後、さらに蘇我氏の権力が強まると、皇極と息子の中大兄らは危機感を抱きます。そして朝鮮からの貢物を献上する儀式で、 中大兄らが蘇我入鹿を惨殺。入鹿の父・蝦夷も自殺に追い込み、これを乙巳の変と呼びます。この変の後、皇極は自ら次の大王を指名して、史上初の生前譲位を行い、退位します。

加藤氏: 本当に大波乱でした。

池田氏:でも皇極の譲位は息子が仕出かしたことの責任を取ったってこと?

木村氏:一見そう見えてるかもしれないんですけど、実はこれ、大王の権威をさらに高める行為だったんです。推古も次の大王について遺言を残すんですが、推薦レベルだったんですね。しかし、皇極は、はっきりと譲位をしたというのは、画期的だったわけです。 皇極は弟の孝徳に譲位するんですが、でもその前に、ちょっと忘れてることありませんか?

池田氏: 中大兄が蘇我氏を倒したってことは、これ大化の改新!

加藤氏:現在では、豪族が持っていた土地や人々を国のものとする「改新の詔」を発布して、王権による中央集権国家を目指す一連の改革の改革を、「大化の改新」って習いますね。

木村氏:でもね、その改革は豪族たちの強い反発を招いて、孝徳は孤立して、失意のうちに亡くなっちゃうんです。そこで立ち上がるのが斉明なんですね。

VTR

加藤氏:ここは明日香村にある飛鳥宮跡。655年、斉明はこの場所で史上初めて 2度目の即位をします。 前任の孝徳は難波に宮を構えていましたが、斉明は慣れ親しんだこの明日香の地に再び宮を構えました。そして、斉明と中大兄たちは大王を中心とした強い国づくりを進めます。中でも大きな事業が倭京と呼ばれる宮都の形成でした。

ナレーション:倭京は大規模な建物や石を敷き詰めた舗装、そして水を取り込んだことで水の都とも言われ、迎賓館は海外からの使者をもてなしました。(後飛鳥岡本宮 倭京の中心地 斉明が現在の飛鳥宮跡あたりに造営したとされる宮 舒明 皇極 天武の時代にも同じ地に宮があったとされる)また斉明は土木工事にも力を入れ、大規模な水路を造営。この水路は日本書記で狂心渠(だぶれごころのみぞ)と非難されるほど大勢の労力を奪うもので、石を運ぶための運河だと言われていますが、唐が攻めてきた時の防御機能を施したとも言われています。また斉明は国をまとめ強くするために東北の蝦夷、南九州の隼人に向けて遠征軍を繰り返し派遣。660年には唐が新羅と連合軍を組み、百済を滅ぼしたことで倭国も脅威が迫ります。すると斉明はこの脅威に立ち向かうため、自ら先頭に立って筑紫に赴き、百済の再興を目指します。しかし、その 5ヶ月後、決戦が迫る中、病により68歳で亡くなってしまいます。その葬儀は、筑紫の山で息子の中大兄によって行われ、「日本書紀」には「その様子を鬼が見ていた」と記しています。

加藤氏:その後、斉明の遺体は筑紫から移され、ここ牽牛子塚(けんごしづか)古墳に埋葬されました。

池田氏: 斉明、すごいですね。倭京を作っちゃうし、自ら戦に赴くし、最後、鬼が葬儀に来ちゃうし、これハンパない!

木村氏:実はですね、斉明が再び飛鳥の地に戻って宮都を作ったことは歴史的に、とっても重要なことなんです。これまでは大王が変わるごとに宮が移されてたんですね。でも飛鳥の地に繰り返し宮を置くことで、都の定着につながり、そして後の藤原京や平安京につながっていくんです。

池田氏:そういう意味でもエポックメイキングな大王だったんですね、斉明は。僕は斉明の時代に作られた石のアートコレクションを紹介したいと思います。

ナレーション:本日のカフェタイムは飛鳥時代に伝わったとされる乳製品・蘇。材料の牛乳は渡来人によって献上されたと言われています。

池田氏:斉明さんの時代の石と水の都に作られた石のアートコレクションをお届けします。まずは「須弥山(しゅみせん 古代インドや仏教の宇宙観や世界観を表す想像上の聖山)石」です。これは須弥山の形をした噴水のようなものなんです。庭園に置かれて外国の使者や王権に従った隼人や蝦夷をもてなした物とも言われています。じゃあ次はこちら「酒船石」です。これは斉明さんが豊穣の祈願や国家の安寧を願う祭祀を行ったと推測されていて、これも水を使うんですよね。そして最後はこちら「石人像」です。岩に腰かけた男性に女性が手を添えているような形に彫られているんですね。外国人がモチーフになっているとも言われているんです。これも噴水のように口から水が出るんですよ。

木村氏: では三人目の女性天皇を見ていきましょう。持統天皇です。まず国際情勢ですが、斉明が亡くなった後、息子の中大兄らによって百済の再興を目指す戦いは続けられ、朝鮮半島南部に進軍するんですが、白村江の戦いで大敗しちゃうんですね。そして人間関係を見ていくと、中大兄が天智天皇になります。そして 46歳で亡くなると、次の大王の座を巡って天智の息子の大友と天智の弟の大海人(おおあま)が争ってしまいます。これが古代最大の内乱と言われる壬申の乱です。壬申の乱では後に天武天皇となる大海人を、後に持統となる鸕野讚良(うののさらら)も支えて見事、勝利します。 キーワードは誕生です。

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加藤氏:奈良県橿原市にある藤原宮跡。壬申の乱で勝利した天武は、さらなる国力の強化を図るため、手狭になった倭京を同じ飛鳥の地に移し、 強大な都・藤原京を作ることを目指します。しかし 686年、天武は予定地を視察して造営を始めた矢先、亡くなってしまいます。その意思を引き継いだのが持統でした。

ナレーション:天武の崩御後、持統はすぐには即位せず、官僚制や法典、戸籍制度など国の体制を整え4年後の690年、満を持して即位。即位すると夫・天武の念願だった藤原京の造営を再開します。

加藤氏:ここは橿原市藤原京資料室。ここには藤原京の全貌がわかる復元模型があります。(この藤原京について橿原市で世界遺産を担当する濱口(和弘)さんに話を伺いました)この藤原京はどんな都だったのでしょうか。

濱口氏:この藤原京っていうのは、持統天皇と亡き夫の天武天皇が日本の国を治める理想の都を作ろうという風に考えられて作られた都です。一辺が5キロメートルもありました。そのまた中心に1キロメートル四方の藤原宮という宮殿が営まれました。この藤原京は中国の都城(王の居城を北辺に置き その南に官庁 周辺に市街地を配置して壁で囲った)を参考にして作られた。具体的には律令制という中国の制度に倣った中央集権国家という国を治めていくための藤原京を作ろうとしたわけですね。

ナレーション:都を移してから3年経った697年、持統は当時15歳だった孫の文武に譲位しますが、これは天皇主導の国家を誇示するためのもので、持統は引き続きと文武と並んで国を治めてゆきます。701年には大宝律令を制定。これは天皇を中心とする国づくりの集大成と言えるもので、今日の刑法にあたる律と、行政法や民放にあたる令で国家を統治する体制が整います。大宝律令の公布後、持統は若い文武の代わりに伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河などを巡り、律令の意義を広めます。そこまでやり遂げた持統は、帰京後、間もなく没します。持統が没した702年には、およそ 30年ぶりに遣唐使が再開され、唐との国交が復活。これは持統が亡くなる前に行った遣唐使任命があったからでした。この派遣では唐に対して日本国の使者であると伝えたことで日本という国名が正式に定まっていったと言われています。

スタジオ

池田氏:キーワードの誕生とは、日本という国の名の誕生を意味していたんですね。

加藤氏:日本という律令国家の誕生も意味してますね。

木村氏:はい。推古や斉明も目指した天皇を中心とした強い国づくりが、この持統の時代に結実したんですね。

池田氏:飛鳥時代はドラマチックですね。仏教を取り込むことで急激に国や文化や都が変わってゆくパラダイムシフトが起こったんですね。

木村氏:ちなみに天皇っていう名称、君主号も天武と持統天皇との時代に定まったと言われてます。ということで、その女性天皇について専門家の先生にもう少し詳しく伺っていきましょう。義江(明子 帝京大学名誉教授 専門 日本古代史 著書「女帝の古代王権史」など)先生、お願いします。 先生、私の頃は、女性天皇が活躍したなんて習った記憶がないんですけれど、評価が変わった理由ってどういうことなんですか?

義江氏:以前は「そもそも女性は政治に関わらなかっただろう」というような思い込みがあって、ある意味、まともに研究してこなかったんですよね。でもそれが多分、2000年代に入る頃から、考古学の新しい発掘もあり、それから「日本書記」などの資料の読み直しなども進められてきた結果、「一人一人の女性天皇について、どういうことをやってきたのか」っていうことが、とてもくっきりと見えてくるようになったんです。

木村氏:そうなんですね。でも推古まで女性天皇はいなかったんですよね。なんででしょう?

義江氏:日本っていうのはもともと男女の性差の乏しい社会だったんですよね。ですから、卑弥呼や台与 (とよ)など、女の王が普通にいたんです。親族の繋がり方っていう面から見ても、日本っていうのは男系女系を区別しない、いわゆる双系的社会といわれる社会なんです。ですから大王のような政治的地位を継承するにあたっても、また親の財産を受け継ぐ面から言っても、 男の子、女の子が同等に受け継ぐ。それが5世紀になりますとヤマト王権(3~4世紀ごろに奈良盆地を中心として成立した日本で最初の広域政権)が朝鮮半島の方まで軍事的に勢力を伸ばしていこうとする過程で、軍を率いる男性軍事王の時代が続いていたわけです。ただそこに推古が現れて、実力を発揮して豪族たちに支持されて、彼女が実績を上げたことによって、続いて女性の天皇たちが出てくるようになったんです。この当時って王位を継承していく順番が決まっていない時代なんですよね。実力とか年齢というものが尊重されましたので、その実力を備えた女性は大王に選ばれる機会が多かった。

加藤氏:女性天皇ならではの特徴とかってあるんですか?

義江氏:これは古代の結婚のやり方ととても深く関わっているんですね。この当時って夫婦が別居の通い婚の時代ですので、そうすると自然に母と子の関係って親密になりますよね。一旦、即位した後で考えると 男性の天皇よりもむしろ女性の天皇の方が次の世代を親密にしっかりと後見できるっていう。そういうメリットっていうのか、特色が女性天皇の方にあったと思います。

池田氏:先生、ちなみに女性天皇や飛鳥時代の研究で、これからどんなことがわかってきそうですか。

義江氏:私が興味を持ってるのは、実は推古の時代の小墾田宮(おはりだのみや)がどこにあったのか、まだわかってないんですよ。もしこれが発掘によってきちんと確認できると、推古の時代、小墾田宮を基点にして、飛鳥の歴史がどのように広がっていったのかっていうのが、もっとはっきり見えてくると思って、とても期待しています。

木村氏: 世界が広がりそうですね。楽しみですね。

飛鳥時代、どうでしたか?この時代についての研究は進んで、日々、歴史が更新されています。私たちもたくさん学んで、自分自身をどんどん更新していきましょう。いまさらですが。

日本の根幹を創った女性天皇を戴いている日本の古代史についてアップデートすると、
本当に誇らしく、未来にも明るい希望が見えてきますね。

大河ドラマの放送前後に、主人公への関心が高まって
関連資料の発見や、研究が進む場合が多いように、
2000年代に入る頃から、考古学の新しい発掘もあり、それから
「日本書記」などの資料の読み直しなども進められてきたのは、まさに
愛子さま御生誕を機に、女性天皇への関心、期待が高まったということでしょう。

素晴らしい番組を、このタイミングで放送したEテレを賛美します。

「愛子天皇への道」サイト運営メンバー まいこ

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5 件のコメント

    京都のS

    2026年11月3日

     まいこ様、詳細な文字起こし、ありがとうございました。文字起こしの重要さは第1に検索したら出てくる点ですね。
     れいにゃん様、「オッカ君チャンネル」の木俣正剛回の紹介、ありがとうございました。「クロ現」(ゲスト:河西秀哉氏)は少し腰が引けているように感じましたが、「歴史探偵」(持統天皇回)や「いまさらですが…」(3女帝&飛鳥・藤原)は踏み込んでいますね。

    あしたのジョージ

    2026年11月3日

    再放送見逃したので、見逃し配信の方をスマホで観ました。
    わかりやすく教えてくれていると思いますが、私の読解力では直ぐにはわからないかなぁ〜
    繰り返し観るのが良いですね~…🥹

    れいにゃん

    2026年11月3日

    以前、小林先生とNoBorderで共演していた元文春編集長木俣正剛氏がゲストの、オッカ君チャンネルがおススメに流れてきたので聞いてみました。すると、その中で、NHKのクローズアップ現代「改正皇室典範」の回の話題になり、こんな会話をしていました。
    木俣氏「クローズアップ現代良かったです。NHKはよく見ていただくと、記者はメチャメチャ(腰が)ひいているんですけど、プロデューサーは全然感じていないんですよ。だから意外に、推古天皇の特集とか、今こんなことやってもいいのか、みたいなことを、女帝の歴史ものをいっぱいやっているんですよ。よく見ると意味深で、自民党が言ってることがいかにバカバカしいかってことが分かる番組作っていて。これに関してはNHK プロデューサーが、何にも上から文句来ないって言ってました。」
    望月記者「愛子さまが歴代天皇で一番尊敬しているという推古天皇を特集するというのは意味深ですね」

    10/30 にライブ配信
    【縦】木俣正剛さんに聞く!「愛子天皇を愛する会」落選運動の狙いは?皇位継承と政治、愛子さまの未来を考える|
    https://www.youtube.com/watch?v=FNp98tNvFnA

    きっと皆さんからの感想・希望も番組担当には届いて後押しになっていると思います。

    ゴロン

    2026年11月3日

    ほんとに良い番組でしたね。NHKに投稿してみました。
    ・・・
     古代日本が双系社会であったことや大王(天皇)の選定が豪族による合議制だったことなど、アップデートされた情報と共に女性天皇について正当な評価をドラマチックに楽しく表現されていて感動しました。監修も義江明子氏ということで、素晴らしい作品でした。この番組の通り、政府の幹部が国会で発言した「神武天皇以来2600年以上男系で継承されて来た」は、こういう意見もあるというレベルの話ではなく、教科書にも載せられないウソだということです。先月施行された改正皇室典範は、このようなウソの言説に基づいたものであることを、NHKは国民に知らしめる義務があるのではないでしょうか。その点では、先日の改正皇室典範に関するクローズアップ現代は、非常に不十分でした。今後、総合テレビでも、義江明子氏や元宮内庁書陵部の鹿内浩胤氏など本当の専門家の話を中心に皇位継承問題を報じてください。

    daigo

    2026年11月3日

    昨日、録画してたの観ました。
    義江明子さんは本物の歴史学者ですね。

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