
1月20日の「知恵泉」は筒井順慶を採り上げていました。大河「豊臣兄弟!」で秀長が郡山城主となる前の城主が順慶でした。戦国期の大和国は地侍が相争う土地で、実質的な支配者は興福寺の僧兵の頭目としての筒井順昭(順慶の父)でしたが、筒井藤勝(後の順慶)が2才の時に病死したため、順昭そっくりの僧(木阿弥)を替え玉とし、藤勝が4才で元服すると「元の木阿弥」に戻ったそうです(真偽は不明)。再び抗争が激化し始めた頃、京を支配する三好長慶の家老・松永久秀が大和を侵略しました。松永久秀の息子(久通)と三好3人衆が京で13代将軍・足利義輝を暗殺し、大和における三好3人衆VS松永久秀の戦火で東大寺大仏殿が焼失すると、これらは後に全て松永久秀の悪行とされました(順慶のネガキャン?)。
やがて織田信長が上洛して天下人になると、久秀は茶器を贈って信長に従い、その支援で大和を統一しますが、久秀が15代将軍・義昭の側に付いたために信長は筒井順慶を大和国主として遇し、信長の養女(※明智光秀の娘)を順慶に嫁がせて一門に加えました。一方の久秀は本願寺・毛利・武田・朝倉・浅井…による信長包囲網に加わり、最期は織田軍に信貴山城を攻められて切腹しました。以後の順慶は、播磨・丹波・摂津・伊賀・信濃・甲斐と信長の戦に次々と駆り出され、兵の動員も戦費と兵站の調達もままならず、そんな苦境の折に援助したのは明智光秀でした。
しかし、やがて本能寺で信長を討った光秀が織田信孝&丹羽長秀(四国攻略に向け和泉国に滞在)の攻略を順慶に要請しますが、順慶は羽柴秀吉に味方すると起請文を送りつつ山崎合戦には赴かず、郡山城で日和見しました。これが「洞ヶ峠を決め込む」(※山崎付近の地名)の語源です。合戦の2日後に秀吉と面会した順慶は何故か所領を安堵されました。もし順慶が直ぐに秀吉軍に参陣していたら、光秀は丹波の福知山城か近江の坂本城に籠城し、異常を感じた毛利や上杉が大軍を起こして織田領を攻めたかもしれず、キャスティングボートは順慶が握っていたわけです。
さて、リアルの現代日本でキャスティングボートを握るのは、統一教会とズブズブの自民党を見限って立憲民主党と新党(中道改革)を結成した公明党です。「天王山」となる次の選挙では自民党議員(男系固執)は軒並み落選するでしょう。
ダンケーさん、寝返るのは今ですよ?
文責:京都のS
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4 件のコメント
英二
2026年1月25日
戦国時代は寝返り上等の世界でした。そんななかでも朝廷だけはほそぼそと、しかし戦国大名に利用されながらでしょうが権威の象徴として存在していました。
今がその時代に似通っていると思うのですが(維新の寝返り)、愛子様が立太子されれば、大政奉還級に時代が変わると思うのです。
京都のS様の様に豊富な知識はありませんが、中道が薩長連合になることを願って止みません。
京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)
2026年1月25日
そうそう、もう一つ盛り込めなかった論点があるのです。領主ともなれば側室を何人も持てたはずの戦国期にあって養子を取っていたことから、筒井順慶も豊臣秀吉と同様に子が出来にくい体質だった可能性があります。つまり、同時代の有名人に2人も男性不妊が存在しているのです。つまり、この問題は当時から相当に普遍的だったはずであり、にも拘らず女子の側にだけ責任を押し付けて「石女(ウマズメ)」などと非難するのは、時代を問わず人非人の所業だということです。
京都のS
2026年1月25日
そうそう、これは「豊臣家の諸問題から我々が学ぶべきこととは?」( https://aiko-sama.com/archives/65615 )の後継ブログでもあります。
しかし、「惟任びいき」の私にとって順慶の「日和見ぶり」には許し難いものを感じます。跡取り(養子:定次)の嫁は信長の養女(光秀の娘・秀子)で、そもそも順慶を信長に引き合わせたのも光秀ですし、各地転戦時代に援助したのも光秀でしたが、その恩を完全に裏切って秀吉に従う旨を記した起請文を送り、しかも両方の顔を立てるために自分は動かないという狡猾さです。細川藤孝と並ぶ戦犯です。
ちなみに「麒麟がくる」で順慶を演じたのは駿河太郎、藤孝を演じたのは眞島秀和です。
京都のS
2026年1月25日
ふぇい様、掲載ありがとうございます。
これは一応「ダンケーさん、寝返るなら今だと思いますよー(棒)」( https://aiko-sama.com/archives/53559 )の正統な後継ブログです(笑)。