宗良親王がお守りし、後世に伝えた 吉野朝 のご威光と尊厳(底)

 ”愛子天皇への道”へお越しの皆様、こんにちは。
私は以前『開智学校が物語る歴代天皇陛下のお足跡、愛子天皇に繋げたい。』という文章を投稿した風樹と申します。

 本日は密かに執筆していた「宗良親王」についての記事を投稿させて頂きました。
書いてみると思った以上に長文になってしまったので、底・中・表の3段階に分けてご紹介します(今回は、「底」です)。

 松本市で皇太子殿下とゴー宣の巡り合いがあって以来、他にも信州と皇族のつながりは有るのかな?と調べたものの、某重大事件以外にこれと言ったものは無く、「こんなものかぁ」としょんぼりしていました。

 そんなある日、よしりん先生とみなぼんさんが「菊の御紋」についてやりとりしているページを読んで勉強していると、思わず「見た事ある!!」と叫んで、勢いそのまま外に飛び出しました。

 向かった先は中学生の頃に通っていた学校から歩いて2分の場所にある東堀正八幡宮。通称「柴宮」。この場所で幼い頃に曾祖父から、600年以上も昔に後醍醐天皇の皇子・宗良親王をお招きしたこと。その際、柴で御所を造築したことが「柴宮」と呼ばれる由来になったこと。宗良親王を御祀りしていた事から柴宮では十六弁菊紋章を使用許可が下りていることを教えて貰いました。

 私がその時「見た事ある」菊の御紋は確かに、蟇股に彫刻されていました。

 幼い私は「ムネヨシシンノウ」という聞き馴染みのない名前に興味を持ち色々訊ねたのですが、悲しいことに義務教育の洗礼により自虐史観に染まってしまい、ほぼ忘れてしまいました。
唯一覚えているのは、戦場に行ったことのある曾祖父から「オレたつぁ、どんな苦しい時でもヨ。宗良親王サマを思い出して耐えてきたんだで。」
という言葉です。

 自虐史観の色眼鏡を外した今、宗良親王と関連して後醍醐天皇、建武中興(建武の新政)、吉野朝(南朝)の歴史を学ぶにつれ、忘れたことを後悔しました。

話を一旦置いて、上記の文を読まれている皆様は「これは愛子様と関係あるの?」と思われたでしょう。
私の主観で恐縮ですが、宗良親王が生きた時代と現代日本が被ってしまい、どうしても表現したい気持ちを抑えられず、今回取り上げて頂いた次第です。

ここからは、

(中)時代背景を踏まえた宗良親王のご生涯。
(底)お歌に秘められた三種の神器と吉野朝のご威光と、吉野朝時代(南北朝時代)と現代日本を比較。

という流れで進めていきます。

文責 長野県 風樹

2 件のコメント

    基礎医学研究者

    2023年2月5日

     南北朝時代、自分も興味あります(今回の話が愛子さまとどう関係してくるのかどうかとは別に(^_^)。自分、よくわかっていないのですが、南北朝時代はまさに、いたずらに傍系継承を並列させると、ロクなことにならない!というイメージが強いので、勉強させていただくことに。

    京都のS

    2023年2月4日

     先が楽しみな連載が始まりました。南北朝時代には興味があります。私の興味は専ら「大楠公」が中心ですけど。なるほど、後醍醐天皇の皇子ですかぁ。

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