宗良親王がお守りし、後世に伝えた 吉野朝 のご威光と尊厳(表)

(そして、「表」でございます)

長慶天皇の御前に奉られた「新葉集」は、勅撰集に准ずる綸旨を下されたものの、時局の影響で殆ど忘れ去られることとなりました。
しかし、時を4世紀も隔てた江戸時代末期、水戸学の興隆とともに注目の的となり、明治維新の原動力となりました。

 その「新葉集」の序文には

『ちはやふる神代より、国をつたふるしるしとなれる三くさのたからをも受けつたへましまし、やまともろこしにつけて、もろもろの道をもおこし行はせ給ふおほんまつりごとなりければ』

と三種の神器についての記述があり、最後は後村上天皇のお歌

四の海 浪もをさまるしるしとて 三の宝を身にぞ伝ふる
九重に 今もますみの鏡こそ 猶世を照らす 光なりけれ

を掲げています。
このことから「新葉集」は三種の神器ご威光と、神器を所有している吉野朝の正統性を説いています。
この確信があるからこそ、吉野朝が武力という点ではどれほど劣勢でも、君臣共に毅然とした姿勢を貫いていたのです。

 今回愛子様ブログに宗良親王の紹介文を投稿しようと思ったきっかけは、宗良親王が生きた時代の国難がそのまま現代日本に当て嵌まるとのでは?という感覚が日増しに大きくなったからです。

 足利高氏は中興に尽力されている後醍醐天皇を差し置いて、光明院を立てて自分の意のままに操れる朝廷をつくりました。言い換えると、皇統を不安定にさせました。
一方現代日本。某元首相は皇室の権威を政治利用し、且つ「旧宮家系男子の皇籍取得」なるプランに固執したせいで、皇室が存続の危機に陥ってます。

 「李花集」「新葉集」のお歌を読むと、吉野朝の君臣がどれほどの苦難と悲壮感、そして皇祖と国民に対する責任を抱えていたのか、また、それ故に後世の人々ーー明治維新の志士やひい爺ちゃんたち旧日本兵ーーの心を掴んだのだと、しんみり伝わってきました。

 後醍醐天皇の遺勅を果たそうと死力を尽くした皇子であり忠臣でもある宗良親王と比べるとちっぽけなものの、私も愛子内親王さまの天皇ご即位が実現するように力を尽くしたいと、改めて決意しました。

 ここまでご拝読頂きありがとうございます。

文責 長野県 風樹

6 件のコメント

    風樹

    2023年2月7日

    ご両人様こんばんは。

    京都のSさん辛辣⁉︎
    確かに坂本龍馬は列強の典型的な植民地政策に乗ってしまいましたね。(武器輸出→内戦→カネ返せ!→お前の領土は俺のもの)

    留守政府の西郷隆盛や江藤新平の活躍は目覚ましいですよね‼︎
    だからこそ、明治6年政変は痛手と感じます…
    とはいえ大久保利通の「結果的に成功した」経済振興策ついでに村田銃も評価しなくてはいかんのでは!と思ったり。

    キソイさんド正論‼︎
    過去を教訓に愛子天皇を目指さなくてはですね。
    男系固執派はもちろん、急に湧いてきた倉山なんたら氏も説破しないと!

    京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)

    2023年2月7日

     風樹様、追加の知識を散りばめたコメントも有難うございます。私は西郷吉之助については勝麟太郎と手打ちした一件(江戸城無血開城)で免責することにしています。西郷が江戸で問題を起こして慶喜を追い込み開戦に仕向けたことや相良総三の件にもムカつきましたが、後の明治政府では最も道義的に振る舞いましたし、岩倉・大久保ら外遊組を送り出した後の内政でも素晴らしい功績がありましたし、明治帝に諫言する尊皇家でもありましたし。
     で、最もムカつくのは、日本史上で日本人から最も愛されている坂本龍馬です。薩摩藩に近づいた英国武器商人の片棒を担いで内戦(戊辰戦争)を激化させただけのくせに、謎に満ちた最期が人々の興味を引いたために英雄視されているからです。すこしサタンの部分が出ました(笑)。

    基礎医学研究者

    2023年2月7日

    風樹さん、ありがとうございました。なるほど、確かにタイミングは悪かったのでしょうね。自分は、後醍醐天皇の親政は実際すばらしかったと思います。できれば、この段階で融合できれば、後醍醐天皇ももっとやりやすかったのかもしれません。しかし、やはり自分の理解では、鎌倉幕府の干渉により両統迭立(りょうとうてつりつ:かわるがわる帝位に立つこと)となってしまったとはいえ、いたづらに傍系継承を敢行することは、後々に大きな問題を起こす教訓のような気が致します。

    風樹

    2023年2月6日

    論破祭りでお忙しい中、サタンを仲魔にする京都のSさんとキソイさんお今晩は&お久しぶりです。

    『勝者の歴史』に覆い隠されている吉野朝の歴史を、私なりに書いてみました。
    ただ文才乏しき私がどこまで伝えれるのか?と煩悶していましたが…
    よもやよもやのスーパーロジカルな御二方のコメント⁉︎とても嬉しいです♪(その分めっちゃ緊張しています)
    そこそこ楽しんで頂けたようで、安心しましたぁ〜。

    ◯京都のSさんへ。
    大鹿村(大河原)に宗良親王について調査に訪れた折にお世話になった郷土史家の方から
    「水戸学門徒が愛読していた太平記・神皇正統記に加えて李花集もあります。」
    という話を教えて頂いたので、上手く絡めて締めようと頑張りました。(大汗)
    他にも、坂本龍馬ら土佐藩の尊皇派は「君がため〜」を愛誦していたとかなんとか。

    水戸学出身の尊皇派のエネルギーの凄まじさには驚嘆するばかりです!
    一方で、地元で起こった「和田峠の戦い」で水戸学出身の最強集団・天狗党を打ち倒したのも長野県人(しかも後々の自由民権思想家を排出)という複雑さ。

    徳川慶喜の潔さはもっと評価されて欲しいです。
    翻って、赤報隊に命じて鳥羽伏見でわざと戦いを誘発させた上で長野県の尊皇派を含める相楽総三を始末した西郷どん、ちょっとやりすぎ。(ちなみに偽官軍事件も地元です。)

    ◯基礎医学研究者さんへ。
    後醍醐帝は大覚寺統(亀山、後宇多、後二条、後醍醐)です。

    大覚寺統・持明院統と権威が2つあった状況で、元寇を退けて「神国思想」(≒天皇親政を目指す)が醸成されたことは、ちょっとタイミングが悪かったかも知れません。

    京都のS

    2023年2月6日

     着地点は何処になるかと思っていましたが、なるほど水戸学を経由しましたか。幕末尊攘思想の嚆矢は水戸ですもんね。私は、英国の傀儡とも映ってしまう薩長土肥より、水戸(初期の尊攘思想を牽引)からの慶喜(個人的な不名誉を引き受けつつ内戦を避けた)の方がナショナリストかもしれないとすら思っています。

    基礎医学研究者

    2023年2月5日

    迫力連載、おつかれさまでした。しかし私、南北朝の動乱については、1つ素朴な疑問があるのです。南北朝時代の原因を作ったのは、確かに足利尊氏(自分は、歴史教科書に流布されている名前を使います)と思いますが、その萌芽は、鎌倉時代の後嵯峨天皇以降に出現した。すなわち、いわゆる持明院統と大覚寺統に皇統が並立したことに原因があるのではないかと自分は思うのですが、いかがでしょうか(ちなみに、後醍醐天皇は大覚寺統)?

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