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前章までSナッシュ(西部邁)氏の『日本人と武士道』をテキストに日本国民の道徳規範として想定された武士道から導かれる国民性や死生観を概観してきました。ここで武士道の重要徳目である「名誉」について再び考えます。武士が最も大事にするのは「名」つまり「名誉」ですが、その何たるかを定めるのは「義」つまり「正義」です。そして「名」や「義」を守るには「二つ二つの場」で死を賭する決断を迫られ、そのためには「勇気」が必要です。「義を見てせざるは勇なきなり」です。しかし平衡を重視する保守思想では、正義の過剰は軽信に向かうため掣肘する節度が必要で、勇気の過剰は野蛮に向うため掣肘する思慮が必要だと言います。また「二つ二つの場」とは「名誉のための死」と「延命のための不名誉」の境目で、人が名や義を求めるのは「より良き生」のためだと言えますが、「延命のための不名誉」を選べば「より良き生」を放棄したことになり、「どうせ死ぬんだから」というニヒリズムに囚われます。西部氏はニヒリズムの根を断つには「意図的な死」が必要だと言います。
また『葉隠』は「何のために死ぬべきか?」には答えず、共同体のために死ねとも首長に殉死しろとも言いません。そのように目的を限定するのは形而上(宗教レベル)の殉教であり、形而下(道徳レベル)の思想からは逸脱します。しかしながら名誉のために死を賭した戦国武士と異なり、必定の死を受け入れた旧日本軍の特攻は「意図的な死」だったと言い、人命を捧げることで対象(祖国や天皇)に向けられる意思の強さを後生に訴えたのだと喝破しました。つまり意図的な死には祖国愛や天皇への恋闕(トキメキ)といった大義の物語が必要だと読み取れます。ゆえに特攻時に叫ぶ言葉は「天皇陛下万歳」しか無いと考えます。
そして、ここで思い出されるのは『ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論』です。同著で最も強く私の印象に残ったのは、出撃命令を待つ特攻隊員に記者がインタビューした件で学徒が返した「…われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ…そう民族の誇りに」というセリフと彼の決然たる表情です。
「意図的な死」を選んだ日本兵の「勇気」に報いるには、彼らの「名誉」と国の「正義」を回復させる必要があり、また同時に、それこそが「武士道の光」を取り戻すための不可欠な階梯だと思われるのです。(了)
文責:京都のS
(参考文献)
『日本人と武士道』(スティーヴン・ナッシュ著、西部邁訳)
『武士道の逆襲』(菅野覚明著)
『神道の逆襲』(菅野覚明著)
8 件のコメント
京都のS
2023年3月15日
殉教様、確かに貴方を召喚しました(笑)。そして来てくれました。
目的を限定した意図的な死は殉教の件ですが、ジャンヌダルクにしろイスラム原理主義・過激派にしろ殉教の場合、後に残される同門信者へのメッセージとしてなら非常に強いと思われます。あだ、それとは異なる目的を限定しない意図的な死とは、どのような行為が義に適い名をもたらすかを、他者と語らったり古人の書物を参照したりしながら考え抜き、最も巧く平衡を取れるように時所位に適った対応を模索するしかありません。しかも意図的な死を敢行する時には勇気による決断が必要です。だから死にゆく者が乗れる大きな物語は不可欠だと思われるのです。この点は「オドレら正気か?in岡山」で小林先生が語った「恋闕論」から導いた結論だったりします。
「霊となって日本に帰って来ても、報われるかどうかはわからない。(その時の)日本人がどんな日本をつくり、何を守っているかによるだろう。」…の件ですが、現在の日本人は、因習としての世間主義や男系主義を死守しながら、受け継いできたエートスは放擲し、さらに自身のポスト(地位や議席、TV番組のレギュラー…)やポジション(左右保革…)、プライドの薄皮(間違いが明らかな持論…)、命、カネ…などを守ることに汲々としています。彼らが守った日本は失われました。「武士道の光」は消え去りました。
西部邁氏は自著で「死ぬ」「死ぬ」と言い続け、「まだ何か出来る」と思ううちは体が不自由となっても娘に口述筆記してもらいながら幾つかの遺作を出し、いよいよ自身の役割が終わりそうだとなった時、予告通りに「意図的な死」を敢行されました。正義と節度、勇気と思慮を平衡させる保守思想の哲人が、それでも敢行した意図的な死の意味は重いと考えます。
ところで、前のコメのやり取りって何でしたか?
殉教@中立派
2023年3月14日
何か呼ばれた気がするので、コメントします。
「正義の過剰」は、お注射の効果を軽信する煽りヤブ医者、「勇気の過剰」はピーチ航空事件・マスパセ奥野を思い出します。小林先生の「時・処・位」のバランス感覚を調整するためにも、「節度」と「思慮」が必要です。社会経験の軍事訓練(嫌な上司への対応を、現場で考える)は「節度」を。書籍で勉強するのは、思考の軍事訓練も兼ねており、「思慮」を鍛えるものでしょう。
死に向き合うこと。「目的を限定した死が、殉教と呼ばれる」は、シンプルで分かり易く、自分の実感にも合っています。ただ、「後に残される者たちへの、メッセージ」としては、特攻隊の方が、強いかなと思います。
形而上的な殉教の場合、私のように「この世界を呪っている(肯定できない)からこそ、死後の世界に希望を見る」という考えになり、「現代を生きるものたちに、語り掛けよう」という視点は、失われてしまいがちです。私の考えの弱点が一つ明らかになったので、肝に銘じておきます。
「大きな物語」が喪失したポストモダン以降。自虐史観の蔓延で、英霊の名誉は貶められました。「戦争論」では「そうした物語の復権」が訴えられていたので、戦中派の老人から、感謝されたのでしょう。
現在の日本は、かつての英霊の想像からは、かけ離れた「歪な発展」を遂げ、現代では、更に劣化を極めました。新戦争論1のラストページ「霊となって日本に帰って来ても、報われるかどうかはわからない。(その時の)日本人がどんな日本をつくり、何を守っているかによるだろう」がグサリと刺さってきます。
それでも。(無能であっても)まだ少しでもやれる事があるなら、突き進むのみですし、(結果が伴わなくとも)この狂った時代を、記録に残す手助けはしていきたいです。
※本文とは関係ない追記:前回のブログコメ欄のやりとりは、カレーせんべいさんの生放送に電話出演した時に、役に立ちました。『よしりん御伽草子・かさじぞうから殉教について考える』的な話をしました。
思想の軍事訓練、協力に感謝します。
京都のS
2023年3月14日
佐々木様、※ありがとうございました。「『個』の確立や倫理道徳の観念は武士が強く庶民には弱い」件ですが、Sナッシュ氏は「名誉の感覚」は特定の身分によらず各階層にあるという立場で、それこそが庶民階層も浴びたはずの「武士道の光」だと思われます。名誉と正義を手放さず、二つ二つの場で早く死ぬ方に片付くこと、つまり汚い仕事(公共を害する何事か)をやるぐらいなら地位や職を辞す方が武士道の光に近く、また社会正義にも適うってわけですね。
佐々木
2023年3月14日
お疲れ様です。大変面白く読ませていただきました。
昨日からマスクの任意着用が任意になりましたが(笑)、どこもかしこも変わりありませんでした。
今回のブログを読んで、「個」の確立や倫理道徳の観念は武士が強く庶民には弱いもののように思えました。
皇室と法治国家としての日本が将来も続くには日本国民全員が武士道を備えるのが必須と考えます。
京都のS
2023年3月14日
「戦国武士の名誉の死は、必ずしも物語を必要としない」に未だ答えていませんでした。戦国武士は「二つ二つの場」(=負け戦の戦場)に立ったとしても、勝って生き残る可能性を信じて戦うからです。勝った上で生きて帰れば自身も一族郎党も名が上がります。しかしながら、特攻隊員は自分が死ぬことを織り込み済みで特攻機に搭乗するのですから、死後の名誉を保証する物語は欠かせません。各人の故郷(クニ)や国(クニ)を象徴する天皇が対象です。その物語を一言で言い現わす言葉が「天皇陛下万歳」や「靖国で会おう」だと考えるわけです。
京都のS
2023年3月14日
うさぎ様、※ありがとうございました。「魂の不滅」とは、日本人の「あの世」感から考えると、山の上から村の子孫を見守る存在(カミ)になることを指す気がします。
『戦争論』には、特攻機に乗った青年が故郷の上空を飛ぶ機会があり、眼下では子供たちが自分の名を人文字で描いてくれているというシーンがありました。すでに青年は村を見下ろし、見守る存在(カミ)に成りつつあったわけです。
Dr.U うさぎ
2023年3月14日
🐇
戦国武士の名誉の死は、必ずしも物語を必要としないわけですね。物語なしで死ねたのはなぜか。司馬遼太郎の「言い触らし団右衛門」には描かれてなかったように思いますが、やはり、戦いの高揚が理由だったと思います。いったん戦場に出たら、狂う。アドレナリンの血の祭り。日常を破る、恐ろしい魅惑の祭り。
特攻隊の死は、かなり違う。弾幕をかいくぐって敵艦に飛び込む1分間には高揚はあったかもしれませんが、それ以上に、戦いではない場での「静謐な覚悟の時間」が長い。そこで若い戦士が見出す物語は、単なるフィクションではない。
魂の不滅。魂が身体を離れた後のこと。このことは、避けられないはずです。
京都のS
2023年3月14日
(参考文献)
『日本人と武士道』(スティーヴン・ナッシュ著、西部邁訳)
『武士道の逆襲』(菅野覚明著)
『神道の逆襲』(菅野覚明著)
『新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論』(小林よしのり著)