【第4章②】
●推古天皇は元々ワンポイントリリーフのつもりでの即位だが、後継者である聖徳太子が先に亡くなったので、長期政権となった (p166~171)(後編)~倉山満『嘘だらけの日本古代史』第4章より~
〇今度は視点を変えて、「聖徳太子」に注目して論じてみましょうか。
日本書紀上では「皇太子」とされ、推古天皇に代わって政(まつりごと)を行ったとされる聖徳太子ですが、この通説も今となってはほぼ、崩れています。
皇太子制の成立は7世紀末の飛鳥浄御原令だという事は明らかになっていますし、推古元年にはまだ20歳であった厩戸王が天皇に代わって「万機」を担うという事は、統治者としては40歳前後でやっと一人前とされていた当時の基準に照らしても、あり得ません。
厩戸立太子の事実が無い、という視点から見れば、倉山がp162~で「大珍説」だと批判してた、「聖徳太子はいなかった」という説も、あながち的外れでもない、という事になりませんか?
だって立太子してなきゃ、聖徳【太子】とは言えないもんねwww
また、古い学説としては、当時有力な皇位継承候補者だった、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子との対立を避ける為、中継ぎとして推古が即位した、という説もあります。
※ 言っとくけど、「竹田皇子」といってもツネヤスじゃないよ?
そもそも飛鳥時代の人だし、敏達天皇と額田部王(推古天皇)の子なので、間違いなく「皇族」ですよ。宮様詐欺師と違ってねwww
まあ、仮に彦人・竹田の二人がホントにライバル関係にあったとしても、当時の人々がそれを「皇位継承争い」という重大さで見ていた可能性は、ほぼゼロでしょうね。
なぜなら、当時の慣例ではまだ、先述の通り30代後半~40代という、当時としては長老クラスの年齢での即位が一般的でしたから。 推古天皇即位時にはまだ20代であった二人の年齢からしても、せいぜい「子供のケンカ」とか「ポケモンバトルのライバル」ぐらいの扱いでしょうか?
ちなみに義江明子氏は、記紀神話に彦人・ 竹田の没年が記載されていない事から、生前の二人が皇位継承候補者として特別視されていなかったのではないか、と分析しています(義江p73)。
また、時代は少々下りますが、西暦にして628年3月、病床にあった推古天皇は、田村皇子 (=舒明天皇)を次の天皇として推す事を匂わせるような遺言を遺した翌日に、亡くなります。
が、群臣達の間には、厩戸王の子である山背大兄王を推す者もあり、遺言の解釈をめぐって会議は紛糾します。
それでも尚、36年に渡って統治の実績を積んできた推古の言葉は重かったらしく、群臣達もその遺言を尊重する形で、田村皇子=舒明天皇の即位は決定します。
義江氏によれば、七世紀末以降に王位継承システムの基本となった「前王による次代指名」の先例が作り出されたのは、この時だそうです。(義江p95)
もし、推古の没年まで厩戸がバリバリ元気に存命で、厩戸に皇位を託す事が推古天皇の意志だったとしても、まだ同一血族間における群臣推戴の風習が色濃く残っていた当時において、厩戸がすんなり天皇に即位出来た可能性は、極めて低いのではないでしょうか?
何より、先程も言及した通り、当時はまだ譲位の制度も、皇太子制度も未成立で、「前王による指名制」すら、推古の没時において初めて生まれた「新例」に過ぎなかったのですから。
仮に厩戸王が存命でも、群臣会議は紛糾したでしょう。
このように整理すると、推古天皇即位の時点で、厩戸王が「次の天皇候補者として、(王を推挙する側である群臣達の間でも)確定していた」とは、とても言えない事がわかります。
すなわち、「推古天皇は聖徳太子に皇位を譲る為の中継ぎに過ぎない」という説は、完全に潰れます。
・・・っていうか、推古天皇の即位が聖徳太子への中継ぎだと仮定すると、むしろ大正天皇の方がよっぽど、昭和天皇への「中継ぎ」だという事になっちゃいますよ?
どちらも終身在位で、おまけに聖徳太子の時とは異なり、皇太子制度がちゃんと確立されている社会で、大正天皇の即位と同時に裕仁親王殿下も立太子されているのだから。
大正天皇ご病気の際は、裕仁皇太子はこれまた20歳で摂政まで務められていた事も、「聖徳太子摂政説」とは違って、間違いなく史実ですもんね。
それともアレですか?
倉山はあくまで、「国の正史であらせられる『日本書紀』様に、聖徳太子が『皇太子』って書いてあるから、それが正しい基準なんだ!!」などという、学者にあるまじき脳ミソ丸投げ思考停止ロジックを、最後の砦として主張するおつもりですか?
「皇室史【学者】」を名乗ってるくせに??
何回も言うけど、記紀神話はあくまで「分析対象」であって、統一協会の『原理講論』みたいに、盲信する対象じゃないんですよ~
(o^ O^)シ彡☆
文責 北海道 突撃一番
参考文献
・高森明勅『女性天皇の成立』幻冬舎新書2021年9月30日p105、p106
・義江明子『女帝の古代王権史』ちくま新書2021年3月10日
「第3章 推古-王族長老女性の即位」
3 件のコメント
突撃一番
2024年1月15日
コメントありがとうございます。
去年の奈良ゴー宣道場でも、高森先生が仰っていましたが、皇極天皇も、推古と同じ理由で「中継ぎ」からは外れますね。
むしろ孝徳天皇の方が、中継ぎの要素が強いそうな。
斉明天皇が亡くなられた後、中大兄皇子が称制を務められていた事からも、「譲位」という慣行が無かった時代に中継ぎという事はあり得ないのがわかります。
チコリ
2024年1月14日
えーっ⁉️皇室史【学者】」を名乗ってる」んですかーっ⁉️
おったまげーっ!
記紀神話を文字通り妄信するのマジやめろ、気色悪い!
それって突撃一番さんが書いていらっしゃるように正に信者ですよね?
原理講論、笑えます!
私は、あの、女が先に立ったらダメだったけど、男が先にやり直したらうまくいった、みたいなことを根拠に、
「主体は男、女は相対」とマジに信じている人々(一部の神道系信者、日本会議あたり)に、
あまりのことに目がぱちくりして絶句しちまいますぜ旦那!
女から告白しちゃいけないって言われていたんですぜ旦那!
で、信じてる女性はいつまでも結婚を願って祈るだけでひたすら声をかけられる日を待つ続け、
寂しい中年のおばはんになってしまうんでごわす!
話が逸れてる、興奮のあまり言葉もおかしい、申し訳ございません!
サトル
2024年1月14日
今回も非常に興味深く拝読しました。
ときどき挟まれる「箸休め突っ込み?(笑)」にも、爆笑し、リフレッシュしながら論考を追えることが出来ました。
箸休め……一品レベルです(笑)
倉山クン、自称「皇室史学者」らしいが、SPA!では「憲政史『研究家』」になってるよ?
厳重に「抗議」したらどうかね?
まあ、「決定版 皇室論」での「バジョットの理解」から考えると「研究家」でも、だいぶ「忖度」してもらえてるとは思うがね。
だって皇室論だけでなく、「憲政史」視点でも「自主回収」レベルだし(爆笑)