「正直なウソつき」の、『嘘だらけ』古代史語録⑦

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【第4章①】

●推古天皇は元々ワンポイントリリーフのつもりでの即位だが、後継者である聖徳太子が先に亡くなったので、長期政権となった(p166~171)
(前編)
~倉山満『嘘だらけの日本古代史』第4章より~

※このテーマは言いたい事が多すぎて、前後編になってしまい申し訳ありません!

ワンポイントリリーフって、要するに特定のバッターだけを打ち取る為のピッチャーって意味でしょ?  ターゲットとなる打者を打ち取ったらどっちみち降板するんだから、言い方を変えたところで結局は「中継ぎ」って言いたいだけだろ!

去年のWBCでちょっとだけ野球知識かじっただけの「にわか突撃一番」でも、軽くネットで調べりゃ見抜けるんだよ。アンタの煙幕答弁ごときはな!!
(出典:コトバンクその他(*´∀`*))

・・・ところで、「中継ぎ」が具体的にどういう条件での即位を意味するのか、倉山サンは本当にわかってますか?

条件は以下の3つ。

①他に本来、ふさわしい天皇候補者がいる
②しかし、候補者がまだ若年である等、即位に対して何らかの障害がある
③その障害が除去あるいは緩和されるまでの間、期間を限定して仮に即位している

まあ、高森明勅先生のウケウリですけどねw

倉山本人も p169で白状しているように、推古天皇治世の時代には、まだ譲位の制度は確立されていませんでした。 

この時点で既に条件③に合致しないので、推古天皇に関してはまず、「中継ぎによる即位」という可能性は消えます。

第31代用明天皇の死後、皇位を狙う穴穂部皇子を天皇に立てようと、物部守屋らが起こした内乱「丁末の役(ていびのえき)」においては、まだ即位していないにもかかわらず、額田部王 (推古) が発した「詔(みことのり)」を蘇我馬子が奉じ、諸豪族がそれに従い、内乱を勝利に導いた事からも、額田部が統率者として高い信頼を得ていた事は明らかでしょう。

まだ天皇じゃないのに【詔(みことのり)】って、一体どんだけカリスマなんだよ額田部姐さん!?

ってカンジですね!!

ではなぜ、「丁末の役」の鎮圧後、額田部はすぐには即位せず、馬子の側について諸皇子の筆頭として戦った泊瀬部皇子(崇峻天皇)を即位させたのでしょうか?

本当にダンケーカルトが言うように、男系継承が皇統の原則だったからなのでしょうか??

実はこれも、継体天皇の時代に手白香皇女(タシラカのヒメミコ)が即位出来なかった事情と、基本的なカラクリは一緒なのです。

5世紀を通じて冊封体制下にあった倭国は、シナ皇帝から官位をもらえるのが男性だけだったという事もあり、「王=男でなければならない」という既成事実(固定観念?)が、この時代まで続いていました。

そんな「男王へのこだわり」の元に即位した崇峻天皇ですが、どうやら王としての資質には欠けていたようで、蘇我馬子との対立の末、殺されてしまいます。

日本書紀における崇峻天皇の巻頭名に和風諡号(治世を象徴する意味をもつ)が無い事から、義江明子氏はこの”王殺し”を、「足かけ五年の治世をみてきた群臣が崇峻を見放した結果である。」と分析しています(義江p71)。

元々、血統そのものに男女の優劣を持たない「双系社会」である倭国で、崇峻を排除した群臣達が切望したのは、性別云々よりも「安定した政治を回復できる、統率力のある執政者(=推古)」だったというわけです(義江同上)。

終身在位が前提で、おまけに即位される前から、類い稀なるリーダーシップを発揮しまくっていた額田部王=推古天皇が、その統治実績を買われて即位された事実を踏まえても尚、推古天皇を「ワンポイントリリーフ」と言い切ってしまえる、ちゃんとした根拠を、倉山の新書のどこを読んでも、マトモな説明がなされていないんですけど!?

これは一体、どういう事なんですか倉山サン!?

さて、額田部の即位によって、群臣達の間からも「男王へのこだわり」は払拭されました。そのおかげで、のちに導入する律令制度に内包される父系主義が、貴族社会に浸透する8世紀半ばまでは、皆さんご存知の通り、皇極~称徳天皇に至るまで、「男女双系による王位継承」が続きます。

まさに5世紀の冊封体制以来、日本を支配していた悪しき「シナ由来の男系主義」を、統治者としてのカリスマ性をもってブッ壊してくれたのが、推古天皇だったと言えるでしょう。

持統天皇にも匹敵するぐらいの、「スーパー女帝」だね!

文責 北海道 突撃一番

参考文献
・高森明勅 公式ブログ
「女性天皇=『中継ぎ』論はもともと政治的背景から生まれた」https://www.a-takamori.com/post/230310

・高森明勅『女性天皇の成立』幻冬舎新書2021年9月30日p105
・義江明子『女帝の古代王権史』ちくま新書2021年3月10日
「第3章 推古-王族長老女性の即位」

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5 件のコメント

    SSKA

    2024年1月14日

    工学分野におけるフェイルセーフに近い機能が古代日本人には統治や政治の慣習の中に知識としてでは無く経験知として組み込まれていた、そういう印象を受けます。
    原発が機能停止に陥った際の補助電源が必要とかそれに近い感覚です。
    男帝のみに拘っていたら統治能力を失い再び政争から戦に発展していた(現に他国では乱を繰り返す歴史が見られる)ところ、政務能力においても信頼出来る女性指導者や女帝の出現が切り札や奥の手として必要とされた極めて重要なターニングポイントであり、実際に求められた以上の務めを果たし断絶を防いだ事から、日本以外の男系原理のみでは続かなかった証明のはずですが、男系派には違って見えるんでしょう。
    男系派による一連の歴史見解は総じて中央権力の不在や空白に対する切迫した危機感を軽く見ている点が非武装中立と対を成す様な平和ボケですし、現行の皇室の存続に対して鈍感な姿勢と重なっています。
    双系説を支持する専門家の方が仰る通り、性別の優越の問題では無く必要に応じて男女共に手を携えて政治を行い危機を乗り切ったと言う結論がしっくり来ます。
    男系の血のみが必要だったと意固地になる態度は現実を見ないただの願望や理想主義であり見栄やプライドの塊でしか無く、寧ろ対立や差別、分断を深める要因ともなる為に異なる人々の意思を一つにまとめ上げる原理など一つもない事が分かります。

    突撃一番

    2024年1月14日

    コメントありがとうございます。

    この章の倉山の論述は、「女性のリーダーシップを認めたくない病」の、単なるこじつけですね。

    崇峻天皇が殺された後、臣下から即位を請われ、一度は辞退された額田部が、まさに群臣達の「三顧の礼」によって即位を決意された事は、倉山がマンセーする『日本書紀』推古天皇章の冒頭部分にバッチリ書いてあるので、見落とす事は考えにくいんですけどね。

    男系継承が全く自明でなかった事は、明らかです。

    自分で日本書紀をマンセーしてるくせに、都合の悪い事は「見ザル言わザル聞かザル病」まで併発してますね。

    サトル

    2024年1月13日

    今回も非常に興味深く拝読しました。
    素晴らしいです。

    しかしあれですね。
    相変わらず「どこを読んでもマトモな説明がなされていない」スタイルなんですね。
    アマゾン評価も「相変わらず」でした。1人だけニヤリとさせる人あり。
    気づいてはいるみたいです。

    ただ実際はもっと酷い……までは、気づいていないのが残念。著者のいかがわしさは判ったようですが。

    京都のS

    2024年1月13日

     う~む、今回も鮮やかです。次の10000円札は推古天皇の肖像でお願いしたい(過去には聖徳太子があった)ですね。持統天皇も捨てがたいですが。

    基礎医学研究者

    2024年1月13日

    (編集者からの割り込みコメント)興味深く読ませていただきました。今回の飛鳥・奈良時代における女帝のこのお話しは、これはDOJOサポーター関西支部のメンバーとしてですが、昨年3月に奈良で開催された「第110回ゴー宣道場:女性天皇は中継ぎか?」のテーマそのものですので、感慨深いものがありました。自分たちが、ラジオ番組「ソライロ」を含めた諸々の告知でアピールしたことは、そもそも「中継ぎをナメルナヨ―(# ゚Д゚)」でした。逆に野球を知っているのならば、スターター→セットアッパー(これが中継ぎね(^_-)-☆)→クローザーとなって、どれが重要とかではなく役割があるわけですから、軽くみるなよー!と、いま考えても思います(すべては状況次第で、セットアッパーは最後まで投げ切る”ロングマン”にもなる)。
     でも、結局「中継ぎ」をネガティブな意味で奴らは使うわけですよね(さすがに、それはまずいと思ったから、ワンポイントリリーフとか、何か粉飾決算のようなぼやっとした意味を使うのでしょうね)。でも、それは政治史から見たら、全然違う。そして、ぼくらも強調しましたが、もしそんなことをいうのならば、男の天皇にもそのような方いたでしょう~( ̄ー ̄)ニヤリと、突撃一番さんの論考を見て、改めて思った次第です。

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