森暢平氏の記事・感想を読んで(キケロさん)

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ふぇいでございます。
森暢平氏のサンデー毎日の記事・感想を読まれた、キケロさんからコメントをいただいたのでご紹介します。

元の記事も併せて読んでみましたが、

「こうした経緯から分かることは、皇位継承で最も重要だったのは直系相続であることだ。皇位は、桃園天皇の子どもへとつないでいくという原理である。裏を返せば、男系でつながっているだけで実は系統が遠い傍系には、皇統を移したくなかった。」

少なくとも英仁親王がいる時の段階では、あくまでも「正統(しょうとう)」は中御門皇統なので、記事にあるように「直系相続」を考えおり、「男系でつながっているだけで実は系統が遠い傍系には、皇統を移したくなかった。」はずです。

しかし後桃園天皇が在位中に崩御した後は、世襲親王家から養子を迎えることになります。
つまり皇統を移しています。

世襲親王家は記事にあるように三家ある中で、世襲親王家の創設が一番近い閑院宮家、さらに出家していない親王として、祐宮(後の光格天皇)を養子に迎えています。
光格天皇の中宮は後花園天皇の第一皇女である欣子内親王であり、温仁親王や悦仁親王の男子を出産するものの、夭折したため中御門皇統は女系としても残らなくなってしまいました。

ちなみに世襲親王家の創設が古くなればなるほど、「正統」から外される天皇が増えてしまうので、それを選択するのは難しいと思います。よく言われる旧11宮家の母体となる伏見宮家から養子を迎え入れて、その人が天皇になるとすれば、室町時代の後花園天皇以降の天皇が「正統」ではなくなるため、それを考えていたとは思えません。
また後桜町上皇を始め、摂家などの公家がそれを容認するとも思えません。

あとなぜ後桜町天皇が女帝として立てられたのかといえば、やはり中御門皇統を「正統」として維持するためです。

またなぜ幼帝の先例があるものの、英仁親王の即位ではなかったのかといえば、おそらく院政を行う院がいなかったためだと思います。

桃園天皇の時に院政を行ったのは先代の桜町天皇であり、桜町天皇はすでに崩御しいます。桃園天皇も若くして崩御したため、宮中において後見となる院が必要だったのではないかと思います。

後桜町天皇は記事にあるように聡明な女帝であり、光格天皇が英邁な君主になったのも後桜町天皇がいたからこそです。そういった意味では、昨今のように女帝を単に「中継ぎ」と見なしてしまうのは君主としてのありようを見失ってしまうでしょう。

ありがとうございます。

天皇に近い皇統をから皇位継承。
現代では愛子さまです。
そして「女性天皇中継ぎ説」もう終わりにしましょう。
ただの男尊女卑です。

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