〈記事紹介・感想〉第16弾 森暢平成城大教授の警鐘(これでいいのか「旧宮家養子案」)

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森先生のこれでいいのか「旧宮家養子案」第16弾です。

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サンデー毎日:伏見宮家は江戸時代でさえ皇位「有力候補」でなかった 社会学的皇室ウォッチング!/114 成城大教授・森暢平

Xに、我々のなじみのある、支離滅裂な男系固執派谷田川惣の名前があります。

とても楽しみです!

 伏見宮系の旧11宮家は、現在の天皇家と室町時代に分かれた遠い血筋にある。その印象を薄めるため、江戸時代に天皇家の皇統が途切れたとき、伏見宮家にある親王も有力な天皇候補だったと男系論者たちは語る。だが、そうした議論は学術的には根拠が薄い俗説である。(一部敬称略)

と始まる今回。ダンケーカルトからまことしやかに話されるこの部分に、森先生がメスを入れてくださいます。

谷田川が、著書『入門「女性天皇」と「女系天皇」はどう違うのか』の中で、後桃園天皇が後継ぎがなく亡くなられたことについて

女性天皇、後桜町上皇と近衛前久(さきひさ)が伏見宮貞敬(さだよし)(当時3歳)を、関白・九条尚実(ひさざね)が閑院宮師仁(もろひと)(当時8歳)を、それぞれ推したと書く。谷田川は「10日間」の議論の末、閑院宮師仁が光格天皇として即位したと続ける

さも「伏見宮家と閑院宮家で天皇になるのを競ったと」いうように感じられますが…
森先生は、まずこう書かれています。

谷田川が書く「近衛前久」は1612年に亡くなっており、「近衛内前(うちさき)」(前太政大臣)の間違いである。

谷田川くん。赤っ恥だね☆

そして、

 たしかに、明治元年の『十三朝紀聞』という俗書に、後桜町上皇と内前が貞敬を推し、ひとり尚実が反対したと記載されている。しかし、典拠が不明なうえ、この説は戦前、東京帝大史料編纂掛の歴史学者、和田英松によって実証的に否定されている(「後桃園帝崩御について」、のち『国史国文之研究』所収)。すなわち、後桃園が亡くなる2日前(10月27日)に、彼の女御(正室)、近衛維子(これこ)と後桜町上皇が参内し、次期天皇は師仁とすることを内定したことが分かっている。

戦前の段階で否定されてるのですか!谷田川くんどうしたの?

そのあとの文章もそのまま引用させていただきます。

 尚実は後桜町上皇の正式な裁可を得たのち、崩御の当日(10月29日)、京都所司代を通じて、幕府に伺いを立てた。江戸までの物理的距離から、返事が来るまで11月8日まで待たなければならなかったが、幕府の答えは師仁の即位(践祚(せんそ))容認である。後継をめぐって「10日間」議論したわけではない。跡継ぎは、後桃園天皇と親等が近い閑院宮家から出すことは当初からの構想であって、貞敬が継承候補に挙がったという事実はまったく存在しない。

・・・?

10月29日に御桜町上皇が幕府に光格天皇即位の伺いを立て、幕府から認める返事が来たのが10日後の11月8日。
仮に谷田川の言う通り「10日間議論した」のなら、話し合ったのちに幕府に伺いを立ててプラス10日かかるのではと素人ながらに考えます。計算が合いません。

谷田川くん。どういうことですか?

そして、後桃園天皇の病が進むことを伏見宮家が祈らせていたとされる伏見宮家の呪詛(じゅそ)事件を書かれています。
最終的には幕府の調査結果で、伏見宮家の当主邦頼は呪いはかけてないということのようですが、
そのような状況の中で邦頼の子供である貞敬が皇位継承の有力候補になることはあり得ないと書いています(そりゃそうだ)

天皇家から伏見宮家への嫁入りは2例しかなく、事実上断絶した伏見宮家は仏門に入った邦頼を無理やり還俗させ継がせ、天皇家と伏見宮家のわだかまりのある中呪いの話が出てきて、伏見宮家と距離を取るのは自然です。しかも伏見宮家は断絶しないように「宮家の繁栄」考えるようになっていきます(第12弾参照

そして幕末期に孝明天皇が、まだ幼い後の明治天皇がする間「中継ぎ」で有栖川宮・伏見宮の3親王に譲位しようという動きがあったが、中継ぎであって皇統を移す気はさらさらなかった。

これは現代でも皇室の皆さまが天皇のお子さまである直系の愛子さまがいらっしゃるのに、600年も離れている伏見宮系の皇統ですらない国民に「皇位継承」させる気はないということと全く一緒ではないかと考えています。私はいまだに上皇さま、陛下、秋篠宮さまからの「養子をとってでも男系で皇位継承するように」というニュアンスのはいったおことば、ふるまいをひとつも知りません。安定的な皇位継承から外れるから当然です。ダンケーカルトに聞いても誰も答えられないです。

谷田川くん。答えてよ。

森先生は結びに

 皇室と伏見宮家の「密接な関係」を示そうと国士舘大客員教授、百地章は、貞敬は後桃園天皇、貞教は孝明天皇の「後継候補の一人」だったと述べる(皇位継承有識者会議資料、2021年5月10日)。まったくの不見識である。同様な俗説がウィキペディアやSNSで拡散される現状は、皇位継承議論を進めるうえで有害である。

捏造データを使ってヒアリングをする百地章は論外です。そして、

俗説を拡散するんじゃないよ!谷田川くん。
俗説を元にキミは何を守ろうとしているの?
キミらダンケーカルトの薄っぺらいプライドより、

安定的な皇位継承のほうが大事なんだよ!
皇室の願いの方が大事なんだよ!

安定的な皇位継承にひとつも興味がない男系固執派を駆逐していく圧巻の連載。
本当にありがたいです。

森先生の次回作楽しみです。

文責 愛子天皇への道サイト運営メンバー ふぇい

4 件のコメント

    くりんぐ

    2024年5月26日

    旧伏見宮家は天皇との血筋が遠すぎて、江戸時代の時点で皇統が途絶えた場合の後継候補にすらなれなかったのですね。

    谷田川氏が「後桃園天皇の後継を伏見宮家から出すか閑院宮家から出すかの議論に10日要した」と思い込んだのは、当時の時代背景を完全無視していたからでしょう。
    後桃園天皇の崩御した江戸時代後期は、今ほど通信手段も移動手段も発達していない時代。
    天皇のいる京都と幕府のある江戸から
    「後桃園天皇が崩御。その後継者を事前に決めていた通り閑院宮師仁親王とすることを京都から江戸の幕府に知らせる。その知らせが幕府に届く。幕府側はそれを了承する。それが江戸から京都に伝わる。」
    この一連の出来事が、当時では10日必要でした。

    谷田川氏は現代でのメールのやりとりのように「すぐに伝わり、その返事もすぐ届く」ものと思い込んでいたと考えられます。
    後継についての議論が長く続いたように見えれば、伏見宮家の貞敬その親王も有力候補だったように印象づけられる。その思惑が思い込みに繋がったのでしょう。

    男系派は旧伏見宮家と天皇との血筋の近さをアピールするために、皇女が嫁いだ(女系)ケースを持ち出すも、明治以前までは、霊元天皇の皇女・福子内親王と東山天皇の皇女・秋子内親王のお二人のみ。少ないですね。
    皇女が嫁ぐケースも少なかったことにはびっくりです。

    旧伏見宮家は当主が跡継ぎを残さず亡くなった場合、天皇の皇子を当主に迎えて天皇との血筋を近づけるよりも、出自の怪しい自称ご烙印や仏門に入っていた旧伏見宮家の子を還俗させてまで、旧伏見宮家の血筋にこだわっていました。

    天皇側と旧伏見宮家のわだかまりが深まる中で後桃園天皇を伏見宮家が呪詛しているという噂が出て、天皇側としては旧伏見宮家の者を後継候補にすらしたくなかったでしょう。
    当然といえば当然です。

    皇位継承は今上陛下と血筋の近い皇族が優先されます。
    その方を差し置いて、すでに国民である旧伏見宮家の子孫を皇族にして皇位継承候補者にすることは、どう見ても乗っ取りです。

    SSKA

    2024年5月23日

    明治から約90年前の皇位問題が何の証拠も無く俗説としてまことしやかに語られる…この時点で近いですし、それをまた現代の素人が歴史家を無視して語り継ぐ繰り返しに情けないものを感じます。

    (子孫を捻じ込む為?)伏見宮家が病床の後桃園天皇に対し呪詛祈祷を行ったのではないかとする当時の疑惑に触れられていますが、男系支持者が90年代以降、皇室(皇太子一家)や女性皇族を人間扱いせず数限り無い誹謗中傷を吐いて来た証拠は全て残っていて、これらも皇室存続を脅かす現代の呪詛と見なす事が出来ると思います。
    また制度や法律は、ただの文字や言葉では無く強制力や実行する意思があるので、国会では賛同者が該当者(女性皇族)に対し、女は結婚も出産もするな、したければ人生を諦めろと暴言を吐いているのと同じと全く認識しない党も議員も罪の薄さに怒りしか湧きませんが、こんな非人道的な人間や集団は滅ぶべくして滅ぶ以外に想像が付きません。
    更に竹田が自民以上に過激な女性皇族完全抹消を平然と唱える様子は先祖の天皇家乗っ取り疑惑を二百数十年越しに自ら実行するに等しく、伝統を騙る者達が過去の時代の伝統破壊者と同じ行動を取る現代の歪みに気付かされますが、人の怨念が血筋とイデオロギーと共に末代まで受け継がれる業や罪の深さを自ら体現している様でもあります。
    平等社会で血統の優劣を論じるのは難しい事ですが、それでも天皇制を維持する為には良い悪いは男女差では無く正統=直系の考えに近い所に譲られるとするのが何時の時代も変わらない意思であるのを忘れてはならないと改めて感じました。

    キケロ

    2024年5月23日

    谷田川氏の本の内容は置くとしても、伏見宮家が天皇候補になる可能性は絶対にないとは言えないと思います。
    しかし皇統が断絶するような余程のことが起きない限りは、伏見宮家に移すとは思えません。

    もし伏見宮家が天皇になった場合に、室町時代の後花園天皇以降の皇統から伏見宮第4代の伏見宮貞常親王以降の系統に「正統(しょうとう)」が移ってしまうためです。そのため伏見宮家が天皇候補になる可能性は余程のことがない限りは考えられません。

    ただ気になるのは、江戸時代になると水戸学の影響が徐々に出てくるため、「正統(しょうとう)」観が薄れてくる気がします。その代わりに「正統(せいとう)」観が幅を利かせるようになったため、孝明天皇の時期に「正統(しょうとう)」を無視した考えが出てきているかもしれません。そうなれば伏見宮家貞教親王が有栖川宮の2人と同格になっていた可能性もあるでしょう。とはいえ公家はある意味先例で生きているようなものなので、議論がおかしな方向(この場合、伏見宮家への譲位)になったとしても止めに入る気もします。

    京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)

    2024年5月23日

     まず「谷田川が書く『近衛前久』は1612年に亡くなっており、『近衛内前(うちさき)』(前太政大臣)の間違いである」に爆笑しました。近衛前久と言えば大河ドラマ「麒麟がくる」で本郷奏多が演じた武闘派の貴族です。織田信長(染谷将太)や明智光秀(長谷川博己)と交流を持っていました。
     「後桃園天皇の病が進むことを伏見宮家が祈らせていたとされる伏見宮家の呪詛(じゅそ)事件を書かれています」からは、大河ドラマ「光る君へ」で本郷奏多が演じた好色な先帝=花山法皇を思い浮かべてしまいます。彼は自分を退位させて一条帝を皇位に就けた藤原兼家(段田安則)・道兼(玉置玲央)に対し、即位を妨害するための呪詛を行いました。
     とにかく読んでいる間は本郷奏多のニヤケ顔が頭から離れなかったのです(笑)。仕事中にも藤原斉信(はんにゃ金田)みたいに「院!院!」と半笑いで口走りそうになりますわ(笑)。
     さらに「後継をめぐって『10日間』議論したわけではない」でも大爆笑でした。下手川掻はSNSに投稿する手間暇しか考えないから、10日間は全て議論に使ったという発想になるのでしょうね(笑)。

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