谷田川さんの言説には問題が多いのですが、江戸時代、伏見宮家が皇位継承の可能性があったという指摘は間違いです。https://t.co/OE66kH3Thf
— 森暢平 (@mori_yohey) May 20, 2024
森暢平先生の連載に、早速谷田川くんが反応しています。
まだ詳細に検討していませんが、あなたが示した『国史国文之研究』の該当箇所で、呪詛については根拠のないものだが、伏見宮にそんな嫌疑がかかるのは、「そは御子貞敬親王を御継嗣に擬したるものありともいい」と書かれています。むしろ伏見宮が皇位継承の候補であったことを示しています。 https://t.co/Pt7nrDaBgR
— 谷田川惣 (@yatagawaosamu) May 21, 2024
まだ詳細に検討していませんが、あなたが示した『国史国文之研究』の該当箇所で、呪詛については根拠のないものだが、伏見宮にそんな嫌疑がかかるのは、「そは御子貞敬親王を御継嗣に擬したるものありともいい」と書かれています。むしろ伏見宮が皇位継承の候補であったことを示しています。
これに、森先生が丁寧に返答されています。
谷田川惣さま
— 森暢平 (@mori_yohey) May 21, 2024
小生のような者に、谷田川先生からリプライがあり、恐縮しております。
僭越ながら、ご指摘の当該記述で和田が強調しているのは、呪詛の噂をした人たちが「貞敬親王を御継嗣に擬した」(伏見宮が、貞敬を継嗣にしたがっていると考えて、呪詛したようだ)ということです。… https://t.co/5A1ZFS6v7e
谷田川惣さま 小生のような者に、谷田川先生からリプライがあり、恐縮しております。
僭越ながら、ご指摘の当該記述で和田が強調しているのは、呪詛の噂をした人たちが「貞敬親王を御継嗣に擬した」(伏見宮が、貞敬を継嗣にしたがっていると考えて、呪詛したようだ)ということです。 関白らが実際に「貞敬を継嗣に擬した」わけではありません。そうした証拠はまったくありません。
和田の論文はもともと明治37年に書かれてもので、一次史料としては「八槐記」ぐらいしか利用できないという史料的限界がありました。後桃園後継、光格登極の問題については、久保貴子以降、一次史料を使ったさまざまな検討がなされています。現在では、当時天皇にお目見えできた公卿たちの日記がそれなりのボリュームで公開されており、近世史研究は、明治期よりも格段に深まっています。
当方も、アカデミックな論争は希望するところですので、谷田川先生もまずは一次史料を詳細にご検討のうえ、原稿という形で反証していただければと思います。
twitterにおけるつぶやきで論じられる問題ではありませんので、この件に関するtwitter上でのやり取りはこれで最後にさせていただければと思います。ご了承ください。
何と丁寧な森先生!谷田川くん。これは受けないといけませんね。
谷田川くんはこちらの森先生の返信について反応していません。出版社を探しているのかな?
まず「反証する・しない」は表明した方がいいよ!
谷田川くん。できるかな?
文責 愛子天皇への道サイト運営メンバー ふぇい
2 件のコメント
佐々木
2024年5月23日
資料の真贋も確かめずに本にしてしまうダメダメだから、森先生の研究成果にビビって、結びの言葉にこれ幸いと逃げたんでしょうね。
サトル
2024年5月23日
谷田川くんへ
「のっぽさん」はもういないからね。
自分でちゃんとやるんだよ。
それが「大人(おとな)」だからね!
大人の対応には、大人で返すんだよ?
(以降完全沈黙……も、まぁ世慣れた大人の対応だけど、言論人としての「死」ではあるけどね。)