私は、与えられたテーマについて、議論することは自由であり、重要であると考えます。
たしかに、「そんな資格はない」と一蹴された時は、一瞬でしたが答えに詰まりました。
皇室に対し日本人として不誠実であったこと、少なくとも身に覚えはあるので、すぐに反論はできません。
しかし我々が、そこで自虐的になって、一種のニヒリズムに陥るのもどうなのか?
思考すること、議論することをやめれば、皇室の危機が救えるのか?
自らの過誤を悔いても挽回する機会を与えられず、それに甘んじて、時の流れにまかせるだけでよいのか?
それは心から納得しての態度ではなく、単なる「逃げ」です。
戦わずして相手の思想の軍門に下るほうが、楽なのだから。
私は、それに対しては「いやだ」とはっきり言いたい。
人のせいにして、それで終わりか?
自分はどうしたいのか?
自分をごまかしていないか?
それぞれが、己に問いかけてほしいことです。
約1年前の、神道学者の高森明勅先生のブログです。
「ボーカル・マジョリティーという造語」
https://www.a-takamori.com/post/191206
「サイレント・マジョリティー(沈黙せる多数派)は自覚的・積極的に声を挙げるボーカル・マジョリティーに変身しなければならない」
「マジョリティーだからと言って“サイレント”と決め付けるのはおかしい。“ボーカル”に変身できるはずだ。又、変身しなければならない局面もあるはずだ」
(本文より引用)
今、国民の8割が女性・女系天皇を切望している。
愛子さまが皇位に就かれることが自然であるとわかっている。
それにも拘わらず、国会では何十年も皇室典範改正が先送りにされている。
例え声には出せなくても、そのことに心を痛めておられる人は多いはずです。
私は、「皇位の安定的継承」を目標に掲げる「ゴー宣道場」の門下生として、
「サイレント」から「ボーカル」へと変わるべく、自分のできることをしようと決意しました。
人に言われたからそうしたのではなく、自分がそうしたかったから。
その変化に「ついていけない」と言って、代案も何も出さないまま、離れていった人も数多いですが、
私は、「せっかく学ばせてくれる場所にいるのに、何もしないというのもつまらない」と考えました。
今後も、同じ志を持つ人と、できることをしていく所存です。
私とて、身の程を超えて、いきなり大それたことはできません。
能力も経験も、足りないところはまだ多いでしょう。
誰でも完璧ではないのだから。
自分の弱さを自覚して、再出発する。1歩ずつでも。失敗しても。
動いていかなければ、永遠に目標には辿り着けない。それは当然だから。
うまくまとまりませんが、私はそういう心づもりでいます。
文責 奈良県 だふね
3 件のコメント
栃木県・いっぱち
2020年12月5日
日本国民が天皇制は必要だと切望するから天皇制が維持出来ます。だから声を上げることは必要だし重要です。言える資格云々より今は行動することが皇室に対して誠実です。むしろ行動しないことが皇室に対して不誠実だと思います。
チコリ
2020年12月5日
「再出発する、一歩ずつでも、失敗しても。」
そうですね。
わたしも、皇統問題を、諦めず、倒れてもまた起き、失敗しても、また、前身します。
ダダ
2020年12月5日
皇室の危機を救えるのは、日本国民だけです。
この社会が不規則性を持つ以上、議論は必要だと思います。