平成13(2001)年12月1日
ご誕生
(展示時「ココ好き」シール 87枚 ☆1位タイ☆)
Embed from Getty Images※写真は12月8日、ご退院時のご様子。
※左右の「<」「>」を押すと写真をスライドできます。
宮内庁病院にてご出産。身長49・6センチ、体重3102グラム。
お祝いの記帳は、誕生日と翌日で12万人にのぼった。
(NHK放送史「皇太子ご夫妻に愛子さまご誕生」で、当時の様子が映像で見れます。)
懐妊された雅子さまの妊婦健診に、皇太子さまは毎回付き添われた。
胎児の性別が判明するころ、確認するか担当医が伺うと、皇太子さまは
「必要ありません。」と即答された。
お名前の「愛子」、御称号の「敬宮」は、天皇陛下から授けられた。
由来は、『孟子』離婁章句下の
「人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬ふ者は人恒に之を敬ふ。」から取られた。
お印のゴヨウツツジは那須御用邸で5月に咲く花で、皇太子さま・雅子さまの
「この純白の花のような純真な心を持った子供に育ってほしい」という願いを込めた。
翌1月の歌会始の儀で、雅子さまは愛子さまが生まれた喜びをお歌に詠まれた。
生れいでし
みどり児のいのち
かがやきて
君と迎ふる
春すがすがし
以上(太字部分)が展示時の記述で、ここからは追加のエピソードです。
ご退院時、雅子さまは「お産がとても楽しかった」と担当医の堤治氏に伝えられました。
堤氏は、その言葉が深く印象に残っており、
「その後の私の産婦人科医人生を変えたと言っても過言ではありません」と後に語っています。
また、堤氏は皇太子さまのご様子についても明かしています。
当時としては珍しく、妊婦健診に必ず同行された皇太子さま。
雅子さまが陣痛で苦しまれているときには、慣れない手つきで一生懸命背中をさすっていたそうです。
そして、愛子さまがお生まれになったことを別室で待機していた皇太子さまに伝えると、
皇太子さまは姿勢を正し、
「先生がおっしゃるように物事が進み、安心してお任せできた。
先生にお願いして本当によかった。ありがとう」
と感謝を伝えられました。
本当は一刻も早く我が子に会いたいはず。
でも、そんな時でも礼節を尽くし、感謝を伝える
皇太子さまの姿に、思わず感極まったといいます。
生まれたての愛子さまを抱かれたときの皇太子さまは、
少々肩に力が入っていたそうです。
当時の天皇皇后両陛下がお喜びになられたのはいうまでもありませんが、
皇族の中で、取り分け祝福の気持ちを強く表に表されたのが、
高松宮妃喜久子さまでした。
喜久子さまは、『婦人公論』平成14(2002)年1月22日号に寄稿し、
愛子さまの健やかな成長をお祈りする和歌3首を披露。
「(自分が)元気なうちにあと二遍でも三遍でも喜びの歌を詠んで差し上げたい」
と今後の出産に期待を寄せられるも、同時に
「もっとも、『二太郎』への期待が雅子妃殿下に過度の心理的負担をお掛けするようなことがあってはなりません」
との配慮も示されています。
そして、
「それにつけても、(中略)皇室典範の最初の條項を今後どうするか」
「女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして
御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、
長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます」
と、この時点で愛子天皇の可能性にまで言及されています。
時代の変化を鋭く察知する観察眼に驚きます。
世論も、女性天皇公認へと大きく動き始めます。
日本世論調査会がこの年の6,7月に実施した世論調査によると、
女性天皇に賛成が71%に上ります。
これは、平成11(1999)年12月の53%を大きく上回り、
当時の過去最高です。
4月に雅子さまの妊娠(3か月)が発表されたことが
影響したのは間違いなく、
男子であれ女子であれ変わらず寿ぐという国民の常識が
正しく起動し始めた瞬間といえるでしょう。
その常識は、今年には女性天皇賛成90%と、
より確固たる意思として示され続けています。
しかし、宮内庁にそんな常識は通じず、
皇太子さま、雅子さまが妊娠中の性別確認を断っていたにも関わらず、
なぜか宮内庁がおなかの中の子が女児であることを把握。
そして落胆した宮内庁は、この頃から「次のお子さま」のことを話し合い、
出産直後から雅子さまに露骨に「第二子」の話をし始めたという・・・
前述の喜久子さまも今後のさらなる出産を期待するようなことを記されていましたが、
これは「お世継ぎ問題」とは関係なく、純粋に子どもが生まれると嬉しくなる
自然な気持ちを表したものでしょう。
その他の記述を見ると、むしろ宮内庁のこうした動きを牽制する意図を
含まれていたように思えてなりません。
※肩書きや称号は、いずれも当時のものです。
参考文献:
・NHK放送史「皇太子ご夫妻に愛子さまご誕生」
・朝日新聞デジタル「愛子さま誕生前、性別告知の要否を聞かれ陛下は即答した 結婚30年」
・NIKKEI NET(アーカイブ)「お名前は「敬宮愛子さま」・命名の儀」
・NIKKEI NET(アーカイブ)「皇位継承は・首相「皇室典範改正は慎重に検討」」
・高森先生ブログ「58歳のお誕生日迎えられた皇后陛下の御歌を謹んで振り返る」
・文春オンライン「「生まれてきてくれて…」「お産がとても楽しかった」 “母の涙”を流された雅子さまの肉声」
・文藝春秋令和6(2024)年1月号「雅子さま還暦 「内なる戦いの30年」」
・AERA.dot「愛子天皇「あり得る」「不自然なことではない」 最後の将軍の孫・喜久子さまが語ったこと」
・asahi.com「女性天皇の検討「不自然でない」 高松宮妃、婦人公論で」
・FRaU「不妊治療に流産も…漫画家も絶句した、雅子妃出産までの「いばらの道」」
・『皇后雅子さま物語』(友納尚子、文春文庫)
※※バックナンバーはカテゴリー「愛子さまの軌跡」でチェック!
文責:静岡県 L.K
5 件のコメント
昭和43号
2024年8月11日
愛子さまのご降臨、誠にこの上なき喜びでございます。
喜久子さまの手記については、このサイトでも何度か取り上げられていましたが、当時男系派から何らかの反応があったのか少し気になりました。
もし今、皇族のどなたかが同様な発言をされたら、男系派は半狂乱になりそうな予感がします。
SSKA
2024年8月10日
本当に命懸けなのは母親ですね。
国民の大半もとっくに宿命(さだめ)と受け入れているのが年々上昇する女帝賛成の数字に表れているのだと思います。
悠仁様に神風と表現したのも時代錯誤に加え、慶事に破滅を被せて生命を侮辱する無神経で自己本位な思考だと当時も不愉快に思いましたけど、男系男子原則は幸福を願う人に謂れの無い不幸を強要して自己満足に耽るただの呪縛でしょう。
あしたのジョージ
2024年8月10日
愛子さま誕生には、なんの問題もありませんが、男の子を望んでいたような人達には問題だったかもしれませんと書くつもりでしたが、文章が下手なので誤解されてしまうような書き方をしてしまったかもしれません。
すいませんでした。
神奈川のY
2024年8月10日
当時の宮内庁の心無い対応、腸が煮えくり返ります。貴殿らの職務、心得は何たることか!と喝を入れて投げ飛ばしたく思います。今でも男系固執の皇室に愛が無い人がいたらそこに直れ!と言って一日以上さとしたいです。乃木大将が聞いたら、西郷隆盛さんが聞いたら、玄洋社の人や頭山満氏が聞いたら顔真っ赤にして説くでしょう。
あしたのジョージ
2024年8月10日
当時の宮内庁の中でも、雅子さまに対して色々な精神的な重圧感をかけていたと思います。
愛子さまが誕生されても色々あったと思います。
そんな中で今上陛下は、皇太子時代に雅子さまを庇い続けたと思います。
異例の記者会見もそのひとつだったと思います。
愛子さまの誕生には、大きな問題があったと思います。
本当はないですが、時代の転換期に入ってみんな意識を変えなければいけない時にきたと思います。
国民のほとんどはもう変わって欲しいと願っていますが、頭の堅い一部の政治家達は、未だに男系男子固執派のままです。
世界から見たら、ただの男尊女卑なだけなのに……。