平成17(2005)年11月25日
愛子さま 3歳
「皇室典範に関する有識者会議」が「女性・女系天皇公認、直系長子優先」とする報告書を提出
(展示時「ココ好き」シール 17枚※
※内、後に安倍晋三が報告書を握りつぶしたことへの怒り・悲しみが6枚)
<<展示時の記述>>
この時点で、「今後、皇室に男子がご誕生になる」としても、「中長期的な制度の在り方として、ここで明らかにした結論が最善のものであると判断した」と明記している。
翌12月の天皇誕生日記者会見で、陛下はこの結論に肯定的な回答を寄せされた。
だが、後に安倍晋三に握りつぶされ、現在に至るまで実現されないままでいる。
「皇室典範に関する有識者会議」の設置が決定されたのは、前年の12月27日。
明けたこの年の1月25日に、第1回会合が開かれました。
直後の皇太子さまのお誕生日記者会見では、女性皇族が皇位継承権を得る可能性が出てきたことに関連して、愛子さまの養育方針についての質問が出ました。
それに対して、皇太子さまは次のように答えられました。
「愛子にはどのような立場に将来なるにせよ,一人の人間として立派に育ってほしいと願っております。」
皇太子さまが、この時点で愛子さまが天皇になられる未来を想定されていたことは、疑いようがありません。
この会議に対して、男系派は、設置から1年もたたず結論を出したことを拙速だと批判しています。
しかし実際には、平成以降、宮内庁は極秘裏に典範改正の検討を進めており、
政府も遅くとも橋本政権時代の平成9(1997)年頃には準備を始めていました。
また、この会議には宮内庁次長も出席していました。
会議メンバーの一人は、週刊誌上で次のように語り、会議は陛下のご意思に沿った結論に達したという認識を示しています。
「次長がやおら立ち上がって何か言い出せば、それは天皇のご意思でしょうから大変なことでしょうが、幸いそれはありませんでした。
次長の顔色を見る限り、会議全体がご意思に反してとんでもない方向に行っていることはないと考えています」
さらに、報告書が提出された直後の天皇陛下のお誕生日記者会見。
会議の結果を受けて、記者が「(女系天皇が)実現すれば皇室の伝統の一大転換」という自身の勝手な伝統観を披瀝しながら、「皇室の伝統とその将来について」質問しました。
それに対して、陛下は
「私の皇室に対する考え方は,天皇及び皇族は,国民と苦楽を共にすることに努め,国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが,皇室の在り方として望ましいということであり,またこの在り方が皇室の伝統ではないかと考えているということです。」
と答えられ、男系継承と伝統は無関係であるとの認識を示されました。
翌年1月20日、小泉純一郎首相は国会の施政方針演説で、
「象徴天皇制度は、国民の間に定着しており、皇位が将来にわたり安定的に継承されるよう、有識者会議の報告に沿って、皇室典範の改正案を提出いたします。」
と宣言。
皇室の伝統を守り、
安定的な皇位継承に最も有効で、
天皇陛下のご意向に適った皇室典範改正
=将来の「愛子天皇」実現に、一番近づいた瞬間でした。
しかし、男系派が組織的な反対運動を展開し、安倍晋三官房長官が独断で典範改正の閣議決定を握りつぶす暴挙に出ます。
小泉首相も押し切られる形で典範改正を断念します。
有識者会議の報告書には、悠仁さまがお生まれになる前のタイミングだったにも関わらず、
「検討に際しては、今後、皇室に男子がご誕生になることも含め、様々な状況を考慮したが、現在の社会状況を踏まえたとき、中長期的な制度の在り方として、ここで明らかにした結論が最善のものであると判断した。」
と、まるで未来を予見したかのような文言が添えられています。
ここまで周到に検討を重ねられた報告書が、中長期的視野を持たない一部の頑強な抵抗によって頓挫させられ、「愛子天皇」実現はおろか、皇室が断絶する危機が日一日と深められていっています。
※肩書きや称号は、いずれも当時のものです。
参考文献:
・皇室典範に関する有識者会議 報告書(PDF)
・皇太子殿下お誕生日に際し(平成17年)
・天皇陛下お誕生日に際し(平成17年)
・『新天皇論』(小林よしのり、小学館)
・第164回国会における小泉内閣総理大臣施政方針演説
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文責:静岡県 L.K
1 件のコメント
あしたのジョージ
2024年8月15日
安倍晋三の手の平返しで、頓挫した皇室典範改正。
この罪は死んでも償えません。
逆賊として歴史に刻まれます。
あの世で閻魔大王にも人たらしの実力を発揮していると思います。🤔