引き続き剣部隊の漢達と彼らの愛娘、紫電改を束ねる源田実氏をご紹介します。
(あらすじを含みます。)
国土防衛、見敵必戦にて源田実氏率いる343空、剣部隊は松山基地にて日々アメリカの重爆撃機達と戦いました。この時の敵機はF6Fヘルキャット、F4Uコルセア、SB2Cヘルダイバーが剣部隊の相手であり、この時のアメリカが零戦キラーとして使っていたのがF6Fヘルキャットで、名前を直訳すれば「地獄の猫」でありますが、スラングでは「性悪女」や「意地の悪い女」の意味も持つそうです。
一方で零戦は志賀淑雄大尉の言葉を借りれば「深窓のご令嬢」であり、「性悪女」とは相性が悪く、だからこそ剣部隊の愛娘である、「下町の猪娘」の紫電改が活躍し、アメリカ相手に大暴れしました。アメリカのパイロットいわく、「かつて経験したことのない恐るべき反撃を受けた。この大空中戦に参加した当飛行隊員の中でも戦闘経験の深いパイロットの意見では、ここで遭遇した日本軍パイロットは、東京方面で出遭ったものより遥かに優れていた。彼らは巧みに飛行機を操り、甚だしく攻撃的であり、良好な組織性と規律と空中戦技を誇示していた。彼らの空戦技法はアメリカ海軍とそっくりだった。この部隊は、戦闘飛行の訓練と経験をよく積んでいると窺える」と戦闘報告で述べられ、また、三四三空との交戦で捕虜になった米パイロットからは「日本は共同作業が悪く、射撃が下手だと思っていたが、三四三空は共同作業も射撃もレベルが高い」と話したとあります(ウィキペディア参照)。
剣部隊も日本が戦況不利になる中、物資不足に制空権をとられ、本土空襲が来るようになると、最強の剣部隊の面々にも常に死神がつく様な状況になり、源田実氏は、剣部隊の漢達に、戦死した時に少しでも遺品を残せるよう髪と爪を切って遺骨箱に残すことを命じ、自らも行っていたそうです。これは空戦で撃墜されたり、空襲で爆撃されたりしたら、遺体が五体満足に残る事が難しい為です。中には遺体どころか機体の破片が残るかが難しい事もあったそうです。また、源田実氏は2月中旬に准士官以上に対し、「誓って制空権を獲得し、戦局挽回を期す」という決意を示して思想統一をし、戦いを続けました。
そんな中、ある日、剣部隊の皆の弟分である笠井智一氏の機が哨戒中、味方の大和型戦艦1番艦「大和」と秋月型駆逐艦「冬月」から攻撃を受けました。味方識別バンクや上下運動をしたのですが攻撃が止むことはなかったそうです。これは紫電改の機体が零戦より一回り大きいためF6Fヘルキャットと誤認されたものと言われています。源田実氏が抗議しますが、「警戒航行隊形にある進路に無断侵入するものは敵味方問わず撃墜が当然」と返信が来たそうです。これは一理あると思いましたが、源田実氏は大艦巨砲主義の象徴である「大和」が気に入らず、大和で行われた第一段作戦研究会で「秦の始皇帝は阿房宮を造り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と大艦巨砲主義に執着する軍部を批判して一切を航空主兵に切り替えるように主張した事がありました。無いと思いたいですが、もしかすると343空と源田実氏に良い思いを抱いていないから遠慮なくやったのでは?とつい身びいきで悪く勘ぐりたくなるエピソードです。
話を戻し、剣部隊は1945年4月1日に第五航空艦隊に編入され、4月8日に鹿屋基地へ移動しました。ここから剣部隊は、沖縄に上陸する米軍を迎撃する菊水作戦に参加し、五航艦の命令に従い特攻隊護衛のため、制空権確保に当たります。この当時は既にアメリカの制空権内で、奄美大島や喜界島付近にて特攻隊の前路哨戒や制空戦闘をやるには至難の状況でした。
しかし、剣部隊は、通常の援護機としてではなく、制空権を確保して突撃啓開することで経路を確保する戦法をとり、敵陣に突っ込みます。この時、最多撃墜王と言われるエースパイロットの岩本徹三中尉(203空)によれば、哨戒中の三四三空、剣部隊が戦闘の助けに入り、雲から黒いつぶてのように降ってきて、鹿児島上空の敵70、80機を襲い、F6Fを面白いように次々と海へ撃墜して敵は逃走、胸のすくような見事な攻撃ぶりだったとあります。
そんな快進撃をしていた剣部隊と源田実氏にアメリカの牙が容赦無く襲いました。剣部隊が鹿屋基地に移った後の4月15日午後3時前後、敵機接近の報を受けて源田実氏はすぐ菅野直大尉達に出撃命令を発しました。しかし、敵機グラマンF6Fヘルキャット数機が上空へ来襲したため、源田実氏は離陸中止命令を出すも、大部分は止まりましたが、既に杉田庄一少尉が滑走しており、間に合わず、発進中の杉田庄一少尉に敵が群がり撃墜されてしまいます。黒煙を吐き、燃える機体にいながら、杉田庄一少尉は味方を巻き込まないよう、命を懸けて基地滑走路の端に墜落炎上し、空戦の神さまと呼ばれた杉田庄一少尉は生涯を閉じました。20歳でした。仲間もその間に発進するもヘルキャットに逃げ切れず撃墜されてしまいます。源田実氏と菅野直大尉達は目の前で大事な杉田庄一少尉と仲間を為すすべも亡くし、源田実氏は無念さと後悔が強くあったとあります。杉田庄一少尉の死を受け、隊長の菅野直大尉は誰が見て分かるほどに落ち込み、源田実氏も強い責任を感じていました。源田実氏は杉田庄一少尉の2階級特進を具申し、単独撃墜70機、協同撃墜40機の功績を全軍布告させ、実際の撃墜数は120機以上だったとも言われる伝説を残しました。
その後、杉田庄一少尉の遺体は庶務を務める地上基地に運ばれていましたが、木箱に納め裏山に放置されていたとあり、剣部隊と源田実氏は「大切な人なんだ、なんとかならないか」と交渉し、相手は少佐を立てたため、343空からも飛行長の志賀淑雄少佐を派遣して安置するように働きかけたそうです。杉田の棺が放置されているのを見た源田実氏は怒り心頭に、「杉田のようなやつをほっておくやつがあるかッ!!」と激高したとあります。また、悲運なのか、杉田庄一少尉を一晩安置した後に火葬したさい、その最中に空襲があり、P-51マスタングのロケット弾によって遺体が吹き飛ばされてしまいました。杉田庄一少尉が空へ散ってしまい、やるせなさがあります。また、戦後の話ですが、343空の慰霊式を開催したさい、杉田庄一少尉の遺族は新潟から大阪に引っ越していたため、343空の慰霊式を開催した際に主催者の志賀淑雄氏は遺族の行方を把握出来なかったそうです。263空から列機を務めた笠井智一氏がわずかな情報から探し出すことに成功し、そこで杉田庄一少尉の母から杉田庄一少尉の死について遺骨も届かなかったことを聞いた笠井氏は志賀淑雄氏と源田実氏に相談し、元343空の調査で関係各所に問い合わせたものの、遺骨はたらい回しになり無縁仏として葬られたようだということが分かったそうです。
なんとか英雄を弔わんと、海上自衛隊出身の相生高秀元副長や志賀淑雄氏らの尽力で、戦死地点の鹿屋航空基地(海上自衛隊基地)に慰霊碑を建立したとあります。また、笠井智一氏は343空の最後の生き残りとして生涯、大事に杉田庄一少尉の紫色のマフラーと思われるマフラーを大事にされていたという話があるとか。
皆さまも、どうか、天皇陛下の下、国体を護るために命を懸けた男の一人、杉田庄一少尉を覚えて頂ければ剣部隊の漢達、源田実氏も幸いと思われますので、一つよろしくお願い致します。
今回の話はこれまで、まだまだ剣部隊と源田実氏の受難が続きます。その16に続く。
文責 神奈川県 神奈川のY
2 件のコメント
神奈川のY
2024年11月30日
あしたのジョージさま、コメントありがとうございます。そうですね、剣部隊で輝く人達はその瞬間に生きて去ってしまう感があります。源田実氏も幾つかのエピソードで、何人も何十人も何百、何千人の命を預かり、散らしてしまった苦渋が端々に観られます。源田実氏の渋く厳つい面立ちはそこから来ているのではと思いました。
あしたのジョージ
2024年11月29日
杉田庄一少尉は、短い生涯でしたね。
でも力いっぱい敵と闘って、私達の日本を守り抜いてくれた英雄だと思います。
わずか20歳で亡くなるなんて、今なら成人式を迎えてこれから新しい人生が始まるところなのに。
時代が時代なので仕方なかったのかもしれませんが、まだまだ生き抜いて欲しかったなぁと思いました。
どうぞ安らかにお眠りください。