ケインジアン双系派がケインジアン男系派を駆逐する! 9th season

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 11月25日放送の「英雄たちの選択」(NHK BS)は「フェートン号事件」(1808)を扱っていました。この事件は、フランス革命(1789~95)に端を発するナポレオン戦争(1803~15)でオランダがフランスの属国となったため、敵対するイギリスがアジアにおけるオランダの商圏を奪うべく、英国船フェートン号が日本(オランダと交易中)の長崎港に押し入った事件です。オランダ商館員2名が船内に捕らえられ、艦長Eペリューは人質解放と引き換えに水・食料・燃料を要求しました。対応に当たった長崎奉行・松平康英が佐賀藩と福岡藩に応援を要請しても反応は無く、そもそも持ち回りで湾内警備を担当していた佐賀藩が兵員数を大幅に削減(緊縮したから起こった事件だとも言えます。さらにペリューは湾内の清や日本の船を焼くと脅したため、止む無く康英は水や食料を引き渡して人質を解放させ、然る後に国辱の責任を取って切腹しました。この件は列強の脅威を近隣諸藩に知らしめ、反省した佐賀藩(肥前国)も後に薩長土肥の一角を占めました。

 上記と同時期に起こった対外戦争が文化露寇(1806~07)です。通商を求めてきたロシア使節に対し、幕府は松前でも長崎でも拒絶したため、怒ったロシア軍は樺太や択捉を襲撃しました。

 以上2件より1800年代初頭は日本で国防意識が高まった時期だと言えます。

 ところで、伊能忠敬が日本全国の測量を開始したのは1800年で、大日本沿海輿地全図が11代将軍・徳川家斉に提出されたのは1821年です。松平定信による寛政の改革(朱子学的規範に基づく緊縮財政:1787~93)が終わり、徳川家斉(幕府の金蔵を尽きさせた暗君?)の治世=文化文政期(1804~30)だったからこそ、伊能測量隊は国家的プロジェクトたり得たのでしょう。つまり、江戸文化が隆盛を極めた文化文政の好況は海防のための公共投資(伊能図・近海の台場建設…)の副産物という側面があり、従って家斉に暗君の汚名を着せたのは後世の自虐派や緊縮派かもしれません。

 では現代日本でも同様の積極財政(公共投資)だけを行えば良いかと言えば然に非ず、本シリーズで何度も述べてきたようにケインズ政策を有効にするには人口減少の原因(男尊女卑)の解消こそが先決であり、その嚆矢は愛子天皇誕生以外に有り得ません。にも拘らず与野党の男系政治屋どもは男系固執というギロチン無き革命に邁進しています。嗚呼…。

文責:京都のS

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