三国志演義で観る君主と民の絆、 曹操に追われる絶対絶命の劉備と民の話をご紹介します(三国志編その4)

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皆さま、突然ですが、絶対絶命の時、保身を取るか大義を取るか考えた事ありますでしょうか?

今回は君主が民(大義、仁義)を取るか保身を取るかの話をご紹介したく思います。

日本では国難にあったさい、天皇は民に寄り添い、己の保身より公の精神で治めていました。 大陸では通常帝は砂粒の個の民の上に立ち、 徳が無ければたちまち転覆する運命にありました。

先の大陸の三国志時代、君主も同じく、民との関係に置いてどう取るかで運命が違います。

流浪の君主で大義をモットーにした劉備がようやく親族の縁で、荊州の劉表の地に落ち着いたと思った矢先、頼りにしていた劉表が病死し、急転直下に事態が変わります。劉表の跡目争いで劉備を支援し、劉備が後添いした、直系長子の劉奇を蔑ろにし、外戚の次子の劉琮が跡を継ぐと、劉琮はすぐ外戚の蔡瑁達の意に従い、大軍の曹操に降伏しました。劉備は四面楚歌状態になり、天下の伏龍と呼ばれた諸葛亮孔明と共に脱するべく策を考えました。
 しかし、孔明の策でも小さい所領の新野では大軍を防ぐ事が難しく、敵になった劉琮を回避するため、遠方の太守である劉奇と合流すべく劉備軍の逃避行が始まります。そのさい、新野の民は劉備についていきたいと嘆願し、その数は多くありました。孔明は民が劉備を慕うは心強けれど、その数が多く、民達の歩数に併せて行軍すると曹操に追いつかれ、命運が絶たれると危惧し、劉備に”我が君、民を置いていきましょう、曹操も無垢な民にひどい扱いはしないでしょう。”と進言します。劉備は孔明に”民は政のもと、赤子の如し、彼らが私を求めるのなら、受けてやろうではないか。彼らがあっての私だ。”と答え、孔明は “しかし、それでは劉備さまの命が危ないでしょう。”と言葉を重ねると、劉備は”ここで私が民を拒み、捨てる、それは今まで大義、仁義で通した 自分には出来ない。苦難の道だろうが、民が私を求めるのなら連れていきたい。それで死んだらそれまでだ”と言い、付いていきたい民を連れて逃避行しました。

ふと、ここで“民を思うのなら民を残した方が良かったのではないか?”という声があると思いますが、こればかりは何とも言えない状況で、仮に民を残しても民の安泰の保証はこの時代は怪しく、曹操の匙加減や武将達次第で民の命は羽毛の如しの状態と推察します。民達は劉備達が治めた中で、劉備に恋闕心を抱いたとしたら、どんな苦難でもついていくといった気持ちがあるとしたら、劉備は己のモットーに準じた姿勢を民にみせるのが筋だったのだろうと思います。
  また、逃避行前に、民を蔑ろにし保身し身を滅ぼした君主がいました。彼の名は公孫瓚と言い、北方の群雄で劉備と同じ師を持つ兄弟子のような存在で騎馬を武器にした(*白馬陣ですねby基礎医)強い群雄の一人でした。公孫瓚は曹操と対峙した袁紹と戦ったさい、ジリジリと攻めこまれ、籠城をしました。そのさい、袁紹は公孫瓚の兵の捕虜達を公孫瓚のもとに遣わしました。捕虜達は公孫瓚に助けを求めるも、公孫瓚はこれは敵の策でもあり、今の籠城が破られたら叶わんと味方である捕虜達を見捨てました。公孫瓚は籠城の兵は多くあり、兵糧もまだある状態でしたが、民、味方を捨てた代償は強く、まだ持ちこたえられる兵力でしたが、民(兵)と君主の心が離れ、ついには保身の代償に一族滅亡しました。

劉備は民との絆を重視し、曹操の大軍に追いつかれ、絶対絶命の戦いの中でしたが、そのモットーを捨てずに貫いたため、窮地を脱したと考えます。ここで劉備がモットーにしていた大義、仁義と民を捨てて逃避行したら恐らく公孫瓚と同じく蜀を建国せず滅んでいたと思われます。 また、大陸では人は知らなくても天地は観ていると言い、日本ではお天道様と同じ意味で使われます。民と劉備達の絆は蜀が滅びても演義で繋がり、現在でも四川省の成都にある武候廟は今でも民の拠り所になっていると思いました。

以上、三国志演義で観る君主と民の絆をご紹介しました。皆さまの御役に立てれば幸いです。

文責 神奈川県 神奈川のY

3 件のコメント

    神奈川のY

    2025年2月9日

    コメントありがとうございます!
    あしたのジョージさま、そうですね、この民を置いていくか、連れていくかは当時の劉備も悩みどころだったと思います。
    まさに先に書いたミッドウェー海戦での先に出撃した戦闘機隊を助けるか見捨てるかに近い問題かもしれません。
    基礎医さま、公孫瓚と劉備ですが、確かに観ているところが違い、器が違った感があります。曹操の視野の広さ、機を見るに敏感であり、劉備も苦労していたと推察しています。曹操級の人を倒せれば(超えれば)怖いもの無しになりますが、難しいところです。

    基礎医学研究者

    2025年2月8日

    (編集者からの割り込みコメント)劉備と公孫瓚の比較は、目先の利益に飛びつくのか?もっと、高いところに理想を置くのか?ということになりますかね。劉備が天下をとれなかったのは、曹操という複眼的な大人物がいたからですが、項羽と劉邦の対決では、結局、劉備型の劉邦が勝利しましたね。
     日本の場合は、国民は天皇の赤子の例えとおり、やはり国民を包み込んでくれているのだな、という感覚でございます。

    あしたのジョージ

    2025年2月8日

    劉備のように民の事を本当に想ってあえて民を置いていくのと自分の保身の為だけに民を置いていくのとでは、同じ行動でも想いが違えば、違った結果になったでしょうか。
    よくわかりませんが、やはり劉備と民との相思相愛の関係があったから、いっしょに同行していくのが、難しい判断ではあると思いますが、正解だったのかもしれませんね。
    民も劉備といっしょに死ねるなら本望だったと思います。🤔

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