ラバウルで桜印(撃墜印)を咲かせた、岩本徹三氏やラバウルの魔王と呼ばれた西沢広義中尉が日本を護る為、奔走するも、日本はアメリカに追いつめられていました。 岩本徹三氏は歴戦のエースパイロットでありますが、それ故に多くの仲間の死を看取っていきます。 岩本徹三氏と西沢広義中尉が熱くラバウル戦を語った後、暫くして岩本徹三氏に西沢広義中尉の訃報を聞きます。 西沢広義中尉は岩本徹三氏と同じく仲間と国の為に零戦で正面から敵を撃つ、ドッグファイトの達人と呼ばれ、何と剣部隊で活躍し、空の宮本武蔵と呼ばれた武藤金義中尉に指導され、戦闘教育で同じく剣部隊の701隊の隊長・鴛淵孝大尉に指導したと言われています。 その腕は新人にしてもうベテラン級だったとあり、また、性格は温厚実直で仲間思いと言われ、ラバウル激戦の後辛くも生き残るも、再びラバウルへ戻り、戦いました。同じラバウルの空を死守した故、2人はお互い意識しあい、好敵手の様な感じでした。しかし、西沢広義中尉は敵に輸送中に襲撃され、フィリピンの空に散ります。
この訃報に岩本徹三氏は肩を落とすも悲観に暮れる間も無く、戦います。しかし、戦況は悪化していく一方で、海軍内では特攻作戦が押し進められます。特攻というと、今では悲惨の自爆行為で 語るのを避ける風潮があり、 特攻は軍内でも、特攻の父と呼ばれた大西瀧治郎氏もこれは外道で、人の命を犠牲にして相手に打撃を与える戦法と呼ばれていました。ですが、この時の日本は物資がジリ貧で海軍の命とも呼ばれた戦艦が数多く沈められ、またその大艦巨砲故に燃料が不足してる中、(戦艦の)活用が今ひとつ、相手に大打撃撃てる方法が限られた中で採られた追いつめられた故のやり方であったのではと推察します。
大西瀧治郎氏も特攻を命じていましたが、特攻を反対し、奮戦する意見も容れて、内心は特攻より他に手があればそれが一番良い、と感じてた風があり、戦後はその責任を負い自決しています。
また、当時の軍人達は士官にも質の違いがあり、自分の命を以て国難に当たる心があり、戦時の際は致命的な傷を貰って”ここまでだ”の状況になったさいに体当たりしてでも敵を撃つ気概がある軍人と、上層部で人を駒としか観ない指揮官失格の頭でっかちで自分は先陣に立たない、おケツで席を温めるしか脳がないウマシカ野郎がいたりします
(このウマシカ野郎軍人(上層部は)今の思考停止して、国体を考えられず、明後日の方向へ動く自称保守の議員らと同じムジナが跋扈(ばっこ)してたからとも思われます。)
また、岩本徹三氏は第二神風特別攻撃隊の志願者募集の際、
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」
と言って志願しなかったとあり、 特攻に関しては
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。神ならぬ身、生きる道あってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。」
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった。」
と回想したとあり、やるせなさを覚えつつ、軍の中で特攻策が押し出される中、岩本徹三氏は特攻の護衛をし、彼らの意思を無駄にせんと背中を護りきり、最後まで特攻した人達の戦果を見届けたとあります(岩本徹三氏の回想・ウィキペディア参照) 。
今回はここまで。
次回は(その五)、 岩本徹三氏と剣部隊と菊水作戦をご紹介します。
文責 神奈川県 神奈川のY
2 件のコメント
神奈川のY
2025年4月11日
あしたのジョージさま、コメントありがとうございます。指揮官の器は大事ですよね!もし男系固執議員が指揮官だったら問答無用で戦闘機に詰め込むか、砲台の弾のように詰めてですよね。で、敵陣に放り込むです。今も昔も上層部に手を焼いてる日本です。
あしたのジョージ
2025年4月10日
岩本徹三氏の良きライバルのような存在だった西沢広義中尉が、フィリピンの空に散っても悲しんでもいられない状況で、戦い続けた岩本徹三氏は男の中の男だと思いました。
上層部の軍人は、ピンキリだったみたいですね。
いい指揮官だったら士気も上がるし、悪い指揮官だったら士気も下がると思います。
今の安定的な皇位継承問題の全体会議でも立憲民主党の野田議員や馬淵澄夫議員などが、上層部なら士気も上がるかもしれませんが、男系派の立憲民主党議員だったら士気も下がりそうですね。
誰とは言いませんが。🥴