国を護り、零戦に桜満開させ、縦横無尽に戦った 撃墜王・零戦虎徹と言われたエースをご紹介します。(その7・岩本徹三氏の想い。最終回)

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*今回は、皇室に関わる話はでてきません。しかし、下にあるように、国体を護るために、このような覚悟をした人達がかつていた!という文脈でみていただければ、幸いでございます(by基礎医)

岩本徹三氏は終戦まで特攻隊の背中を見送り、最後まで奮闘しました。8月15日の終戦の報せを聞いた際、他の戦闘機乗りや軍人と同じく、信じられない、悔しい、まだやれる!戦える!の想いが入り混じるように喪失感が強く、3日ほど抜け殻のようになったと言われてます。

終戦から数日後、搭乗員解散命令で、思い出の品、写真など全部の所持品を焼いて、ウイスキー1本を軍用自転車に積んで、岩国から益田まで帰郷したとあります。また、ウィキペディアや本人のエピソードによると、戦後は東京のGHQに2度呼び出されたりして、ラバウルなどの戦闘の様子について尋問されたりされました。この時、戦犯にはならなかったのですが、他の軍人や戦闘機乗りと同じく、公職追放となります。
 岩本徹三氏は日本開拓公社に入社して、同郷の岩本徹三氏のファンである幸子夫人と見合い結婚しましたが、何を思い立ったのか、結婚3日後に北海道の開拓に単身出発したりします。1年半程で、心臓を病み帰ってくると、何と夫人の顔を忘れていた様子があったそうです。心、ここに非ずです。

その後の生活では、空の生活から地上の生活にいまいちなじめず、また戦闘機乗りの気質も抜けず、戦後の民から軍人さんへの冷たくなった態度など世相への適応も簡単ではなかったそうです。そして次第に心のはけ口をお酒になり、アルコールに依存していった、やるせない暮らしをされます。しかし、もともと明るい性格なので、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせ、隣家で結核患者が病死した際、感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況をみかねて、岩本徹三氏は鼻の穴に綿をつめて一人淡々と遺体を葬ってあげたというエピソードがあります。

岩本徹三氏は、益田土木事務所をはじめ、畑仕事、鶏の飼育、駅前の菓子問屋などの職を転々としました。また夫人との間に2人の子が出来て、父親としての岩本徹三氏は、手先が器用だったので、子供のおもちゃを自分で作って、トタン、ブリキを買ってきては、自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理したそうです。その腕は夫人が感心される程との事でした。穏やかな岩本徹三氏の暮らしです。
 GHQ統治支配が終わり益田大和紡績会社に職を得て、ようやく、落ち着きを見せましたが、医者に盲腸炎を腸炎と誤診されて腹部を大手術すること3回、さらに入院中に戦傷を受けた背中が痛みだし4,5回の手術を行って、最後は麻酔をかけずに脇の下を30cmくらい切開して肋骨を2本取り出した、不運に見舞われます。

最後は敗血症により、病名も不明のまま1955年の5月12日、7歳と5歳の男の子を残して空に帰ります。享年38でした。また、病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていたそうで、204空時代の柴田武雄司令官(源田実のライバルです。)に葬式で、「岩本は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男でした」と語られたそうです。

また夫人は、未公開の岩本徹三氏の活躍を、回想録を後世に伝えた功労者の一人になり、生き残って苦しい生活の続いた岩本徹三氏を助けました。岩本徹三氏は不運にも早世してしまいましたが、夫人が大事に、岩本徹三氏の海軍時代を詳細に記した大学ノート3冊の回想録を保管されて、 今日の話題社の中村正利はこの遺稿の存在を知り、作家秦郁彦が監修協力して「零戦撃墜王」と題し出版されたとあり、戦後20年を経て、彼自身の詳細な回想録が世に出るに至ったそうです。また、岩本徹三氏の次男は航空自衛隊に入隊され、親父の意思を継いだとあり、戦闘機のエースパイロットは見事に桜を満開にさせ、散った後に息子に背中を見せて意思を継がせる、そんな粋な漢の話です。

零戦虎徹の岩本徹三氏の背中を皆さまに届けまして、これにて岩本徹三氏の話を終わります。

最後に岩本徹三氏に敬礼!です。

文責:神奈川県 神奈川のY

3 件のコメント

    神奈川のY

    2025年4月27日

    コメントありがとうございます!
    基礎医さま、
    大陸では国破れてしまうと国体護持は難しく、日本だからこそ、破れても国体護持して立ち上がれた底力が見えた気がします。
    また、軍人さんは今も肩身狭いかもしれませんが、今も昔もお国の為、お疲れ様です!と労って良いとつくづく思います。
    岩本徹三氏は太く短く、濃い人生だったかと思いました。まさに桜の如くです。
    あしたのジョージさま、
    ありがとうございます!まだまだお国の為、尊皇の英霊達がいますので引き続きご紹介出来たらと思います。
    また、戦闘機乗りは空と結婚したと言えるほど愛機と空を翔けるのが好きだったかと思えます。もしかしたら今でも岩本徹三氏が愛機で空を飛んでるかもしれません。

    あしたのジョージ

    2025年4月27日

    戦時中も大変だったと思いますが、戦後の人生も大変だったんですね。
    やっと落ち着いてきたと思ったら病気などの手術ばかりで。
    奥さまも大変苦労されたと思いますが、息子さんが、航空自衛隊に入られたのが救いというか岩本徹三氏の意志を継ぐようでとても良かったですね。
    なんにしても日本の為に戦ってくれた人達が終戦になっても苦労された話は、時代が時代だったと言われても気の毒ですね。
    最後に私も岩本徹三氏に敬礼!です。
    そして神奈川のYさんもお疲れ様でした。🙇

    基礎医学研究者

    2025年4月27日

    (編集者からの割り込みコメント)神奈川のYさん、連載、大変おつかれさまでした。長期の連載なので、皇室の話題がでてこないときもありましたが、今回の最初の日本が敗けたときのエピソードなどは、まさに(純粋な意味での)神国日本が敗けた!という、自分のアイデンティティが崩壊するくらいの衝撃だったのでしょうね。こういう感覚は、小林先生の「戦争論」にも描かれていますね。まさに、”国破れて、山河あり”、しかし、国体(皇室の存在)は護られた、と。
     あと、今回感じたのは、岩本さんは戦後も生きられたようですが、去年38歳ですか。ものすごい密度の人生を生きられましたね!それが、よく伝わってきた次第です。

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