
『「いき」の構造』(九鬼周造著)という日本文化論の名著を御存じでしょうか。吉原を舞台とする大河ドラマ「べらぼう」を語るために再読しました。「意気」「粋」とは、①媚態・②意気地・③諦めの3要素を併せ持つ、色事(恋愛)に特化した親密圏(遊郭を含む)における日本人の民族的な美意識だと言えそうです。①は平たく言えば異性にモテる態度、②は武士道的理想主義(武士は食わねど高楊枝≒宵越しの銭は持たない江戸っ子)、③は③は仏教的非実現性(諦念≒執着からの解脱)であり、九鬼は「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由を生きる」のが〈いき〉だと結論します。
ちなみに西部師匠なら、①と②③は対立する場合があるから時処位に応じて平衡を取れと言うでしょう。師匠の代表作『知性の構造』(徳目の関連を示す挿画が多い)は前掲書を意識していたかもしれません。
さて、恋愛的親密圏では意気←→野暮・甘味←→渋味が対立し、一般的公共圏では上品←→下品・派手←→地味が対立し、これら8項目を頂点とする六面体が文中に挿画されていますが、ここで各項目に性別の要素が全く関わってこないことに気付きます。例えば「べらぼう」でも〈諦念〉を宿した瀬川(小芝風花)の流し目(媚態)が男たちを魅了しますが、いくら身の上が辛くとも蔦谷重三郎(横浜流星)への恋心を秘めたまま強がってみせます(意気地)。瀬川に大金を貢がされても、河岸女郎(最下層)を救うためだと知れば返金を拒むであろう長谷川平蔵(中村隼人)も粋です。身請けした瀬川の心が自分ではなく重三に有ると知り、瀬川のために離縁した鳥山検校(市原隼人)も粋です。
そう、価値的に高い美意識としての〈意気・粋〉に男女の区別は無いのです。畢竟、男の方が価値的に高いなどと平気で宣う御仁(自称保守に多い)は日本人の民族的な美意識から遠く隔たっているわけです。そんなものは儒教的な大陸的価値観か、キリスト教的な欧州的価値観か、その両方(統一協会)でしょう。
ところで、上記した一般的公共圏にあって〈意気〉に対応するのは〈上品〉です。公的存在としての皇族方を一言で形容すれば〈上品〉ですが、それは私的親密圏に属す〈粋〉の「①媚態」を封印したがゆえあり、その無私ゆえに尊く有難く感じられるわけです。であれば皇族方の私的親密圏(プライベート)は可能な限り不可侵であるべきだと考えます。 (文責:京都のS)
8 件のコメント
京都のS
2025年5月20日
私は当サイトで日本文化論を展開していましたが、本稿(粋論)は武士道について書いた「天皇陛下万歳への道程」( https://aiko-sama.com/archives/24139 )とは対照的な内容かもしれません。でも、共に日本文化論でありつつ互いに補完し合っています。
京都のS
2025年5月20日
ありがとうございます。もう一つの「③は③は」の部分は読者が脳内保管できる範囲だからOKです(笑)。
ふぇい
2025年5月19日
京都のSさま。
該当箇所変更しました。
京都のS
2025年5月19日
申し訳ありません。「③は③は仏教的非現実性」は「③は仏教的非実現性」です。「現実性」ではなく「実現性」です。
京都のS
2025年5月19日
ジョージ様、※ありがとうございます。「べらぼう」では、富本豊前太夫も長谷川平蔵も恋川春町も扇屋宇右衛門も、瀬川も”ふじ”も”いね”も粋ですね。武士道の町人的展開が粋だと知れたことが本論を書いた件での収穫でした。
こん様、※ありがとうございます。男系固執派どもには「皇族女子の私的親密圏を侵すな」と言いたいですね。これは未だに眞子様を追いかける記者らにも言いたいです。
daigo様、『「いき」の構造・他2篇』(九鬼周造・岩波文庫)は面白いですよ。
daigo
2025年5月18日
「いき」の構造今度読んでみます。
ありがとうございます。
こん
2025年5月18日
愛子さまの配偶者は旧皇族の子孫から、というのは野暮の極み。
ダンケーは豚野郎、ということで合点がいくコラムでした。
大変読みやすく、わかりやすかったです。
あしたのジョージ
2025年5月18日
粋というものを改めて考えるなんて流石、粋な京都の街のSさんですね~🤔
べらぼうはとても粋なドラマだと思って観ています。
粋という言葉は、最近使われなくなってしまったと思います。
粋に対して野暮という反対の言葉も余り使われなくなってしまったと思います。
何が粋で何が野暮だがもわからないような世の中になってしまったと思います。
でも確実に粋な振舞いの人はいると思います。
※野暮天の私が言うのもなんですが。🥴