2.26事件にて鈴木貫太郎氏は出血多量の瀕死状態に陥るも”まだ死ねん!”と復活します。
医者によると、鈴木貫太郎氏は頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症でしたが、胸部の弾丸が心臓をわずかに右に外れたことと、頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが命拾いだったとあります。この時、体の中に残った弾丸は医者から「うるさいようでしたらいつでも取り出してあげますよ」と言われるも、色々思うところがあったのか、鈴木貫太郎氏はこの提案を断り、生涯弾丸は体の中に残ったままであったそうです。
また、この時に襲撃してきた安藤輝三大尉は、普段は部下思いで弱者に寄り添う心あるもの静かな青年であったそう(*映画「2.26]の三浦友和も、そのような演じ方をしていましたねby基礎医)で、君側の奸と観られていた鈴木貫太郎氏と会って親しく話をし、鈴木貫太郎氏の歴史観や国家観を聴き、安藤輝三大尉は大きな感銘を受けたとあります。面会後、「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐の深い大人物だ」と語っていたそうです。
2.26事件に際して安藤輝三大尉は鈴木貫太郎氏を一時的に監禁することで済ませることはできないかと考えていたとの話があり、決起に対しては慎重な態度を取り続け、あくまで合法的闘争の道を主張したそうですが、最終的に成功の見込みが薄いとは知りながらも、同志を見殺しにすることが出来ず、参加を決断し鈴木貫太郎襲撃に繋がります。情け強い安藤輝三大尉ではなく、他の将校が鈴木貫太郎氏の下に行っていたら、恐らく鈴木貫太郎氏は生きていなかったのではと思うところです。
鈴木貫太郎氏曰く、安藤輝三大尉が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べます。
この時、陸軍の首脳部は青年将校に同調的で、鎮圧に向けて強く出なかったのですが、昭和天皇が強く早く鎮圧するように、また、「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き兇暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と鋭く批判し、ついには「朕自ら近衛師団を率ひ、此が鎮定に当らん」と訴えたとあります。
この時の昭和天皇の心は、察するに、鈴木貫太郎氏達を襲撃された怒り、将校達が悪戯に民を怖がらせ、国内外の争いの火種になる事に怒っていたのではないでしょうか。民の心に寄り添う君主と反対に民を蔑ろにし、悪戯に治安を乱すのは何よりも許さないとも見受けられます。
戦後の1981年1月17日に昭和天皇は警視庁本部庁舎を視察した際に、警視総監に「色々な重要な施設等暴漢例えば、2・26の如き折、充分防護は考えていようね」と仰られたエピソードがあります。
話を戻し、
鈴木貫太郎氏は事件から回復を遂げて職務に復帰しましたが、老齢により侍従長を退任し枢密顧問官専任となり、同日、長年の勲功によって特に男爵に叙せられたとあります。また、鈴木貫太郎氏は多治速比売の命を厚く信仰していたそうで、
多治速比売神社に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝したさい、「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語った話があります。
神さまからも厚い加護されつつ、鈴木貫太郎氏は、阿南惟幾氏と大東亜戦争の荒波に揉まれていきます。
今回の話はここまで次回は阿南惟幾氏の戦話から入ります。阿南惟幾氏その4に続きます。
文責 神奈川県 神奈川のY
2 件のコメント
神奈川のY
2025年5月21日
あしたのジョージさま、コメントありがとうございます。
多治速比売命は鈴木貫太郎氏の生まれた大阪府にある 多治速比売神社(たじはやひめじんじゃ)におられる女神さまとあり、日本書紀などに登場しないですが、安産、良縁、厄除けの神さまであります。
恐らく、鈴木貫太郎氏の産土神さま的な存在だったのではと推察します。
※産土神は自分が生まれた場所の管轄の神さまで、自分の管轄の人を良く観てくれると言われてます。神社庁に電話すると教えてくれますが、地理的に近い神社とは限らないようです。
あしたのジョージ
2025年5月20日
鈴木貫太郎氏はやはり強運ですね。
強靭な意志を持っていたからこそ助かったのかもしれません。
安藤輝三大尉に対しても自分を撃った張本人であるにもかかわらず慈悲深い気持ちを持っていてとても懐の深い人だと思いました。
教養がないので、多治速比売という言葉がよくわかりませんでした。
出来たら教えて欲しいですね。🙇