
本稿は「不比等回~弾劾ス」の続編です。「知恵泉」(8/25)が藤原光明子を採り上げました。光明子は藤原不比等の娘として701年に誕生し、同年に首皇子(後の聖武帝:文武帝と藤原宮子の子)も誕生しました。724年に聖武帝が即位し、729年に光明子が皇后となりました。皇后は成務も採れる地位ですが、当時は臣下の娘が皇后になることは異例(※皇后は皇族だけ:臣下は妃まで)でした。天災・飢饉・疫病が続いたので皇后は国分寺の建立を勧め、東大寺の大仏を鎮護国家の中核としました。帝は建立中の大仏に跪き、「仏の僕」を自称する宣命を発したそうです。
ゲストの倉本一宏氏は「律令制定から数十年」「天照の子孫というだけでは権力基盤が脆弱」「中国では天帝が皇帝に地上支配を委ねる」「日本には立派な天が無いから仏教に縋るしか無かった」と解説し、光明皇后は唐の則天武后を参考にしたと述べました(※「東アジアの~」参照)。儒教では女子は政に関われませんが、仏の前では男女は平等との理屈で武則天は女帝を正当化したようです。倉本は武則天を持ち出すことで古代日本の女帝を全てネグったのです。
さて、法華寺(国分尼寺の中核)は藤原不比等邸跡地であり、また興福寺(藤原氏の氏寺)に施薬院・悲田院を置いたことを以て「身を切る覚悟」を示した光明皇后を絶賛しましたが、莫大な不比等の遺産を少し吐き出しただけです。これは「身を切る改革」を訴える某党への秋波でしょう。
756年に聖武上皇が崩御すると、光明皇太后は9000点に及ぶ聖武の遺品を正倉院に収蔵しました。遺品の一つ「赤漆文欟木御厨子」は天武帝の愛用品でしたが、天武→持統→文武→元正→聖武…という継承図を示すことで元明→元正の女系継承を隠蔽し、また皇太后が厨子を皇位継承のレガリアにしたがった件では三種の神器をも相対化しました。さらに厨子を正倉院に封印したせいで皇位継承が不安定化したと説き、安積親王(聖武と卑母の子)を排除して皇位に就けた阿倍内親王(※阿倍皇太子とは書かず:孝謙・称徳帝)が道教に皇位を譲ろうとした件を大々的に喧伝し、江戸期まで女帝が現れなかったのは称徳帝の愚行と藤原に拘った光明子のミスだと結論しました(※実は摂関政治と武家政権のせい)。
以上のように天照大神も歴代女帝もシナ儒教の観点から徹底的に侮蔑した倉本は曲学阿世の徒であり、彼を重用するNHKに公共放送の資格は無いとして弾劾します。
文責:京都のS