東アジアの女性君主時代

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 日本列島で乙巳の変(645年:中大兄皇子と中臣鎌足により皇極帝の御前にて蘇我入鹿殺害)が起こった頃、朝鮮半島の新羅では善徳王(♀)が立っていました。朝鮮最古の歴史書『三国志記』「新羅本記」によれば、高句麗・百済との戦に際して援軍を求めた新羅の使者に唐の太宗は「女を王としているから隣国に侮られる」「我が一族の男子を遣わすから王とせよ」と言い放ったとされます。しかし、義江明子氏の研究によれば、大陸の歴史書『旧唐書』「新羅伝」には太宗の件が無いそうです。また『三国志記』善徳王段の末尾では、作者・金富軾が呂后(漢)や則天武后(唐)を悪例として引きつつ「男は尊く女は卑しい…老婆に政治を任せて良いものか」と付言しています。つまり『三国志記』が成立した12世紀半ばの高麗支配層における男尊女卑観念が表出していたわけです。

 善徳王(在位:632-647)が死ぬと妹の真徳王(在位:647-654)が立ちました。当時は高句麗・百済との戦が続いていましたが、唐は再び女王の即位を許容しました。しかも、上記から分かる通り朝鮮半島は男尊女卑の本場だと言えますが、何と善徳から真徳は王位の女系継承でした。

 ところで同じ頃(655年)、大陸の唐では武照(♀)が3代皇帝・高宗の皇后(後の則天武后)となり、病弱な高宗と共に二聖政治を行いました。高宗の死後は息子たち(中宗・睿宗)を退位させて自らが帝位に就いた(在位:690-705)そうですが、ここで李氏の唐王朝から武氏の周王朝に革まった(武周革命)わけです。大陸史上初の女性皇帝が出現した理由としては、隋も唐も鮮卑族(モンゴル系とトルコ系の混ざった遊牧民)の興した国であり、鮮卑族は女性の地位が高かったことと、新興国・唐の官僚機構(科挙制度:朱子学)が未成熟だったことが挙げられましょう。また唐の最大版図は高宗期だとされますが、それは武照との二聖政治期だと思われます。

 さて、同時期(7~8世紀)の日本では、推古(在位592-628)・皇極(642-645)=斉明(655-661)・持統(690-697)・元明(707-715)・元正(715-724)・孝謙(749-758)=称徳(764-770)と、8代6方の女帝が即位しており、この現象を大陸や半島のトレンドに乗ったからだと見るのは自虐が過ぎます。これはポリネシア人とカザフ遊牧民の流れを汲む縄文人のエートスが発現したと見るべきでしょう。   

文責:京都のS

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4 件のコメント

    『源氏物語』が書かれた京都のS

    2024年2月28日

     SSKA様、ありがとうございました。
     大陸・半島人と日本人とのメンタリティーの違いは、大石久和氏の言う紛争死史観(欧米~中東~中韓)VS災害死史観(日本・太平洋島嶼)の差だと思われます。異民族を制圧する局面では男が活躍するしかありませんが、災害時に助け合う局面では性差など無意味ですから。
     安定した平安期に女帝が現れなかった理由は、それまでは独立宮にいる妻たちを帝が訪問していたのに彼女らを内裏後宮に集めて入内させる体制にしたことと、藤原一族による摂関政治が始まったことが原因だと思われます。
     私は「光る君へ」にガチ嵌りしているので、どうしても話がソッチへ寄っていきます(笑)。

    SSKA

    2024年2月27日

    現在の中国とも共通する部分で版図が広大、異民族派閥が外部から複雑に入り乱れ興亡を繰り返す、武を以て武を制すが当たり前の風土で常に脅威に晒される中で圧倒的な武力と雑多な民衆を管理する能力と思想(儒教)が政権に必要とされる、女性で武力を掌握出来る人は稀で短期間に限られ力の強い男に取って代わられる、等の事情ですかね。
    国内の争いはありつつも複数の女帝を輩出した奈良時代や安定した江戸時代に復活した事例を見ても大規模侵略によって民族の文化が破壊されない事が如何に貴重か分かる気がしますし皇室が世界中から尊ばれる理由もそこにあるはずで続いた理由に男系は全く関係無いと思われます。

    京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)

    2024年2月27日

     Y様、※ありがとうございます。
     新羅において善徳や真徳が王位に就けたのは、隣の大帝国が女性の活力を認める鮮卑族の国(隋&唐)だったことが大きいと考えられます。そして日ノ本(倭国)と交流の深かった百済に女王が誕生しなかった理由は、我々は彼らに教え諭す立場であり、彼らから学ぶものなど何も無いという態度だったからでしょう。その癖に百済が新羅や唐に滅ぼされそうになったら百済復興軍が倭国に救援を求めてきました。その要請に応えたのが斉明帝(♀)で、そこから起こった対外戦争が白村江事変です。
     「雌鶏に巣を作らすな」は本稿のテキスト『女帝の古代王権史』(義江明子著)にもありました。今の中共は漢民族の帝国ですから、トルコ系(≒東トルキスタン≒鮮卑族)のメンタリティー(女性の活躍を公認)に戻ることは不可能でしょう。ぜひ男尊女卑体制のまま人口減少して衰退していただきたいですね。
     さて、トルコ系と言えばカザフスタンですが、この地には騎馬遊牧民のサカ族が王国を築き、女王トミュリスはペルシャ帝国とも果敢に戦ったそうです。大河ドラマ「光る君へ」では藤原道長ら若手公達(F4)が打毬というポロに似たスポーツに興じていましたが、このペルシャ発祥の球技は西へ行ってポロ(英)に、東へ行って打毬(日)となったわけです。「光る君へ」は楽器の琵琶も印象的な小道具ですが、カザフの伝統楽器ドンブラは琵琶にそっくりみたいです。
     ところで「VIVANT」(TBS)のバルカ共和国(モンゴル・カザフ・ロシア・ウイグルに囲まれた架空の国)はカザフスタンがモデルだと思われます。「VIVANT2」は朝鮮半島あたりが舞台だそうですが、どうなることでしょうねぇ…。「VIVANT」のヒロイン二階堂ふみを韓流俳優と共演させた「Eye Love You」(TBS)は、その前哨戦ってところでしょうか。しかし毎日新聞(TBSと深すぎる関係)は、そういう「大人の事情」で統一協会の追及を止めないでもらいたいです。
     かなり違う着地点になりました(笑)。

    神奈川のY

    2024年2月27日

    京都のS様、今回も興味深く読ませて頂きました。男尊女卑の朝鮮や中国に女性君主が誕生した意義はとても大きく、政治は男女関係無しに出来ると表明されましたが、シナの内情を考えると、女性君主の下にいた男性の臣下のプライドと嫉妬で表では女性君主を敬い、裏ではいつ引きずり降ろそうかと虎視眈々とした世界ではなかったのかと思われました。儒教の教えに雌鶏に巣を作らすな(占領するな?)の考えが今も根強くあり、政事に成果を出した則天武后の扱いが酷くあったと記憶しています。今は則天武后の評価が見直しつつありますが、大陸にも男尊女卑の風を一掃する事が出来れば未来があると感じますが、根付いた化石の価値観を変えるのは中々難しいです。

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