
「知恵泉」(8/18)が藤原不比等を採り上げていました。彼は乙子の変(645)で活躍した中臣鎌足の子ですが、壬申の乱(672)で大友皇子側に付いたために逆賊となり、身柄は田辺史(フヒト:渡来系の官僚)に預けられました。成人した藤原史(フヒト)を持統天皇が判事に登用しましたが、白村江の敗戦(663)以降、中央集権体制を整備するための人材を欲していた持統帝が、新たな律令編纂に必要な人材としてフヒトに白羽の矢を立てたわけです。
持統帝は天武帝との子である草壁皇子に譲位する意向でしたが、皇子が急死したために孫の軽皇子(文武)を立てるべくライバルたち(忍壁・高市・舎人・長…)を押し退け、持統帝が上皇として幼帝を補佐できる制度をフヒトが助言したと番組は解説し、この件を以て唐の律令を直輸入しなかった実例としました(※「同じ高市でも~」「神罰や仏罰より~」参照)。しかし、唐の律令と日ノ本の大宝・養老令との最も顕著な違いは、「継嗣令・皇兄弟子条」に付いた原注「女帝の子も亦同じ(女系天皇もOKだよ)」です。これにより文武帝の死後は母(阿閇皇女→元明帝)が即位し、元明は娘(氷高皇女→元正帝)に譲位し、元正は甥(首皇子→聖武帝:文武と藤原宮子との子)に譲位しました。
同番組では、文武が早世したために幼い首皇子(不比等にとっては孫)を立てる必要があり、そのために権力基盤を強化すべく平城京を築いたと解説しましたが、元明から元正への女系継承をネグり、持統帝が完成させた藤原京をシナ儒教的観点からディスり(藤原宮は皇帝が南面しない立地だから×)、とにかく藤原(不比等)アゲ・女帝サゲの意図しか感じない番組作りでした。平城京は、平城宮の東端に隣接する不比等邸が首皇子の宮より広大だったり外京の興福寺(藤原氏の氏寺)が平城宮を見下ろす立地だったりと不敬を究める構造でした。
ゲストの倉本一宏氏(※大河「光る君へ」の時代考証を担当)は藤原不比等を「明治維新における大久保利通のような人」と評しましたが、よもや「令和の藤原(麻生太郎)」が大久保利通の玄孫である件を踏まえた発言か?と勘繰ってしまいます。「光る君へ」は現代にも通じる女性の生き辛さに焦点を当てた傑作ドラマでした(※「皇族方も~1」「皇族方も~2」参照)が、本番組での発言により倉本氏は大きく株を下げました。また、ここまで権力に媚びるテレビ局が公共放送を名乗るとは許しがたいことです。
文責:京都のS
5 件のコメント
京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)
2026年8月27日
下のコメ(↓)にある「葛野王は十市皇女と大友皇子との子ではなく、高市皇子との子だったというフィクション設定」についてですが、これは大河「光る君へ」において賢子が紫式部と藤原宣孝の子ではなく藤式部(紫式部)と藤原道長との子だったというフィクション設定と同種のものです。こういう突飛な展開を許した「光る君へ」の時代考証担当・倉本一宏氏はリスペクトしたいのですが、男尊女卑や男系主義に固執する御仁なら完全に台無しです。軽蔑せざるを得ません。
京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)
2026年8月22日
筆者が持統帝の時代を舞台として作劇するなら、高市皇子(大海人皇子と尼子娘との息子)を主人公とし、十市皇女(大海人と額田王との娘)との特別な絆を中心に据えるでしょう。
天智帝の遺児・大友皇子と大海人皇子とが皇位を争った壬申の乱により、敗死した大友皇子との間に葛野王を産んでいた十市皇女は立場が危うくなります。そこで高市皇子は、十市皇女の子である葛野王が鸕野讚良皇女(後の持統帝)に殺されないように入れ智恵し、天武・持統皇統の正統性を葛野王自身に主張させました。当時の持統帝は実子である草壁皇子を後継者とすべく大津皇子(母は天智の娘:鸕野讚良と同格)を排除していましたが、高市皇子(母は地方豪族)は継承レースに参加する資格が無く、また壬申の乱の功臣でもあったために持統に重用され、持統の様々な施策、律令編纂、庚寅年籍作成、藤原京造営の継続…にも高市皇子は当たったはずです。
そして、この辺りで官僚として登用された藤原不比等と高市皇子は出会ったはずです。「飛鳥浄御原令」を参考に「大宝律令」や「養老立用」を編纂する作業でも高市と不比等は協力したでしょう。持統の意を受けて「女帝の子も亦同じ」の原注を入れたのも2人でしょう。
養老継嗣令の皇兄弟子条に入れた原注に対する持統帝の意図は孫の軽皇子(文武)に譲位できるようにすることですが、高市皇子の意図は女系女子への拡大の法制化により十市皇女や葛野王を守ることをも考えたはずです。しかし、不比等の意図は自身の娘である宮子と文武帝との子である首皇子(後の聖武帝)を皇位に就け、その外祖父として権勢を振るうことにあり、つまり3人は完全に同床異夢でした。
ここから筆者の作劇上のオリジナルを入れますが、なぜ高市皇子が十市皇女や葛野王を守りたがったか?については、実は葛野王は十市皇女と大友皇子との子ではなく、高市皇子との子だったというフィクション設定をブッ込みます(笑)。
まぁ以上のようなフィクションは於くとして、歴代天皇の中で愛子様が最も敬愛する人物が持統天皇(史上最高の女傑君主)だという事実は、非常に重要だと考えます。最も重要なことは、高市皇子は忠臣でしたが、高市早苗は逆臣だということです。また麻生太郎は藤原不比等(折檻政治の元祖)だということです。
京都のS
2026年8月22日
「飛鳥・藤原の宮都」の構成遺跡群に含まれる古墳の被葬者を以下に示します。
⑩石舞台古墳(四角):蘇我馬子
⑪菖蒲池古墳(四角):蘇我入鹿
⑫牽牛子塚古墳(八角):斉明天皇&間人皇女(斉明の娘)の合葬
⑰中尾山古墳(八角):文武天皇(元明天皇と草壁皇子との息子)
⑱高松塚古墳(円):高市皇子(天武天皇の息子)
⑲キトラ古墳(円)は忍壁皇子(天武天皇の息子)
※八角墳:天皇、円墳:皇族、方墳:蘇我氏。
京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)
2026年8月21日
番組内では持統女帝が藤原不比等に頼り切っている描写でしたが、「大宝令」や「養老令」の継嗣令(皇兄弟子条)に「女帝の子も亦同じ」という原注を入れさせた件は、絶対に持統帝が不比等に命令してやらせたはずです。自身の即位や持統皇統の流れを盤石にするためにも必要だからです。
それどころか、身罷る直前の文武が母(阿閇皇女→元明)に譲位するよう仕向けたのも、元明が娘(氷高皇女→元正)に譲位するよう助言したのも持統帝だったかもしれません。
これほどのスーパーウーマンを「不比等に頼り切ってた」みたいな描写にしたのが異常だったのです。
京都のS
2026年8月21日
ふぇい様、掲載ありがとうございました。「知恵泉」の光明子回がクズだったら、「『知恵泉』光明子回で歴史歪曲したNHKを弾劾ス」て感じで批判する予定です。