「天皇と、宗教、政教分離」ブログからさらに考察(雑考)しました

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L.Kです。

先日掲載したブログ「天皇と、宗教、政教分離についての考察(雑感)」に、7人の方からコメントを寄せていただきました。

そのコメントを通じて、さらに考察(雑考)を深めたところがありますので、コール&レスポンス形式でご紹介します。

尚、読みやすさを考慮して、改行位置などを若干修正させていただいております。


1. 京都のSさん

 これは、ライヴ感が全開なのに筋道の通った、エッセイ風なのに論文調でもある、とても読み応えのある見事な文章でした。

 米国風の政教分離はキリスト教の各宗派間におけるバランスの問題だと聞きました。

また普遍宗教としてのキリスト教と集金システムとしてのカルトが全く違うのは勿論ですが、宗教とは言い切れない習俗(盆や正月、先祖との関わり)の側面が強い神道に米国風の政教分離を当てはめるのも違うと感じます。

 そして、地域色の強い習俗を含む神道は、神話を起源とする天皇と民が織りなす国家の物語に徐々に収斂されていった感もあるため、その物語を身近に感じることこそがカルトに精神を侵されないための方途の一つであるように思います。

アメリカも、政教分離とは言いつつ基本はキリスト教なんじゃないかという気がします。
大統領就任時の宣誓しかり、このコメントでいただいた情報しかり。
国家を形成する「人」の慣習や心に目を向けて、政教分離のあり方を考えるバランス感覚が重要ですね。

日本は、あまりに歴史がありすぎるから、君主のルーツが神話にまでたどりついてしまいます。
だから現代人の感覚では皇室への理解が追い付かなくなってしまうのかもしれません。
「ずーッと国民の幸せを祈ってきてくださった方々」というくらいの認識でよいのだと思うんですけどね。


2. 殉教@中立派さん

 山形有朋は、教育勅語を国民に対する「軍令」のようなものにしたがったが、帝国憲法の起草者である井上毅は「立憲主義」を尊重し「君主は、臣民の良心の自由に干渉せず」と総理を牽制した。
勅語は(中略)命令しているのではなく、天皇が一緒にやろうと国民に「お願い」しているのであり、強制ではない。
(ゴー宣2nd・P172以降より)

(L.Kさんの記述)
しかし、今の刹那的で即物的な世相を鑑みると、人の集合体である国家が、人の内面にまったく踏み込まずに機能するとは思えないのです。
「軍隊を持たない国家」と同じくらい非現実的なのではないか。

(俺の私見)
 これは、小林先生の考えとは異なる問題提起。これが「信者」にならず「思索」するという事なのだろう。
・・・私自身は、もう希望なんて持てないし、さっさと散ってあの世に行きたいタイプではあるが。

たけし社長や、このサイトの方々など「希望を捨てずに戦う者達」に感情を揺さぶられ「少しでも助けになりたい」と思ってしまう。
 もう(自分自身が)生きる希望を持てなくても。

陛下や皇族方のように「希望の物語」を提示する存在は、守らねばならない。
自分の生命に価値が無くても「未来へ残すべき価値」を繋ぐために。
それが私の(言論で)戦う理由である。

念のため申し上げると、私は森友学園のようにせよ、と言っているわけではないですよ(^^;)

人の心を無視して国民を統合する=国家として機能することはできない、というとこから立脚して、
国民をしつけるとかではなく、むしろ逆に国家として国民を大切にする態度を示して、信頼関係を築いてほしいんです。
それにどう応えるかは国民一人一人の問題ですが(親の心子知らず;)、まあ今よりは全体的にマシになるんじゃなかなと。

殉教さんは、候補者アプローチにもご協力くださいましたし、替え歌企画で皆さんを楽しませてくださっています。
人のため、公のために動けるのは、まだまだ希望を捨てていないからではないでしょうか。

天皇・皇室を「希望の物語」と捉えて守ろうとしてくださる、そのお気持ちが私はとても嬉しいです。


3. ダダさん

人間は社会的な動物なので、権威(規範)無しでは生きていけないと思いました。
それが宗教であっても良いと思います。
カルトのせいで、宗教全般が悪とみなされるのは嫌ですね。。(;一_一)

人は、何かを信じずには生きられない存在なのだと思います。
アドラー心理学の創始者・アドラーに言わせれば、
「すべての悩みは、人間関係に起因する」そうです。
答えがわからず、それでも先に進まなければならないから悩みが生じます。
わからないなりに進むには、「信じる」という作業が不可欠です。

自分なりに答えを求めて考える「手助け」をするのが権威や宗教であり、
答えそのものを「与える」ふりをして搾取するのがカルト(あるいは権力も)である、
と言えるんじゃないかなと思います。
そのどちらを信じるか。
心が弱っていると、後者を信じちゃいそうですね。

個を持って生きるためにこそ、信じる対象が必要です。
「自分を最も自由にさせてくれる束縛」として、権威や宗教が見直されてほしいと思います。


4. 基礎医学研究者さん

 興味深く読ませていただきました。
私、脳科学には詳しくありませんが、確かに科学者目線で見ますと、人間の情感は遺伝性(ゲノム情報)だけでなく、環境の影響が大きいと思います。
赤ちゃんの情感は確実に生まれて以降の”人とのふれあい”が大きいのだと、自分の経験からも思います。閑話休題。

 自分は”宗教(宗教心)”そのものは否定しません。

「日本人は宗教心がない」といわれながらも、意識できないレベル(習慣や道徳心など)で神道や仏教が関わっているのはほぼ間違いない、と私見では思います。
しかし問題は、L.kさん言われるように、このブログで挙げられたような(新興)宗教は、なぜか他者との関係性が崩壊し、やけに自己の利益と結びついているのは非常に謎ですね。
「皇室」を意識するのは、これとはまったく逆に、縦と横の人の関係性を考えること(あるいは意識すること)そのものである、と改めて思った次第です(今回のL.Kさんのブログを読んで、そのように思いました)。

ダダさんへの返答とも重なりますが、
悩みの源泉が「人間関係」にあるのなら、
本質的に、カルトが信者に与える「答え」は、その「人間関係の破壊」に直結するのではないでしょうか。

悩むことがあっても、それを世界(人間関係)の否定へと向かわせず、自己の成長によって乗り越える。
そうさせていけるよう、人生の始めの時点で世界との信頼関係を築いていってほしいです。


5. urikaniさん

私も最近、赤ちゃんと猫とか犬、赤ちゃん単体(笑)の動画観て癒されてます(*^^*)
赤ちゃんて産まれたばかりなのにスゴいチカラ持ってて驚きますΣ( ̄□ ̄)!
大人は一旦まっさらになって物事見てみよう!

犬・猫とコラボするとかわいさ倍増ですね(*´ω`*)
本気の赤ちゃんは侮れません(笑)
甥っ子、姪っ子を抱っこするときは苦労しました。

>天皇による希望の物語を国家が提示することに、もっと自信を持ってよいのではないかと私は思います。 国民に寄り添い、国民の安寧を祈られる天皇の本質を知っていればこそ、それが悪用されることも防げるでしょう。

同感です。

>今の刹那的で即物的な世相を鑑みると、人の集合体である国家が、人の内面にまったく踏み込まずに機能するとは思えないのです。

わたしもそう思います。
人と人との関わり、繋がりに内面が関係ないはずがないと思いますので。

新自由主義、グローバル時代に入って、一層心のあり方が問われていると思います。
他に類を見ない権威である天皇を戴く日本は、本来最も有利な立場にいるはずなのに、自らそれを捨てようとしています。

権威としてある存在を蔑ろにしているのだから、国として迷走するのも当然です。

L.Kさんのブログいつも読み応えがありますね!面白かったです。
次も楽しみです( ^ω^ )♬♬

土曜日レギュラー+@で書かせていただいています。
また読んでくださいね(^o^)/


6. なのフェイさん

やっぱり、学校で天皇皇室のことを教えた方が良いと思いました。

やった!そう思っていただけたなら、書いた甲斐があったというものです(^^)

別に無理やり天皇陛下を信奉しろというのではなくて、この国の形はこうなのだということに、何の問題があるのかと思いますよね。


7. yan ryuさん

「希望があり、人を温かいものと感じられる人ほど、困難にも挫けず強く生きていけることでしょう。
いっぱい愛されなさいよ。
そして強く生きろよ、赤ちゃん!」
この四行で、涙腺決壊しそうになりました。

(*´▽`*)

「天皇による希望の物語」
そうですね!そしてこの物語を一切排除してしまい、国民としての一体感を感じることができず、国民一人一人が砂粒のような存在になってしまったところに、古くは連合赤軍、そして統一教会やオウムのようなカルトが付け入る隙を与えていると、『戦争論』を読んで感じていました。
日本国憲法が第一章「天皇」から始まるにも関わらず、そこに触れない学校教育。
「いじめ」「自殺」等の教育の問題はここからはじまっているようにも感じます。

「個の砂粒化」が深刻ですね。

昭和の時代までは、地域の共同体が人と人との結びつきを支えていたと思うのですが、時代とともに「個人主義」という名の「私人主義」が広まり、それも廃れてしまいました。

与えられた環境の中で結果を出すのがクールだと思っている。
だけどそこには自分の成功しか念頭にありません。他者への気遣いが抜け落ちています。

みんながみんな、他人との関わりを避けて自分のことしか考えなくなりました。
だから、個々の解決能力は弱まり、問題から目を背け、他人任せ(権威主義)となって弱者は取り残され、人心の荒廃は限界寸前です。

「日本国民統合の象徴」として天皇が位置づけられているのに、その存在が意識づけられていないから、再統合のきっかけが作れません。
目の前にある答えに気付いていない。
真夏なのにマスクを着けて、暑いのに改善策がわかっていないのと、同じような状態です。

国家・社会を保つには人と人とのつながりが不可欠です。
しかし人と人との間には問題がつきもの。
それでも国家・社会を保つため、前向きに関わっていけるよう、人と人とが支え合える物語が必要になってきます。
その中心的役割を担ってくださるのが、私を滅し公に尽くしてくださる天皇なんじゃないかと思います。

でもそこまでしてくださっているのに、そのありがたみに気付かない。
つくづく甘ったれですね、日本人は。



コメントをいただけたお陰で、皆さまが本文を読んでどのように思ったかが分かりましたし、私自身、自分の考えを整理したり深めたりすることができました。

コメントをくださった皆さま、本当にありがとうございました!

まだご覧になってない皆さまは、よろしければ本文も読んでみてください。

そしてさらによろしければ、ご感想・ご意見をコメント欄にてお寄せいただけますと嬉しいです☆

これからも、どうぞよろしくお願いします!


文責:静岡県 L.K(40代、男性、土曜日ブログ担当)

4 件のコメント

    京都のS

    2022年8月3日

     L.Kさんのyan ryuさんへの回答に考えさせられました。
    「『個の砂粒化』が深刻ですね。昭和の時代までは、地域の共同体が人と人との結びつきを支えていたと思うのですが、時代とともに『個人主義』という名の『私人主義』が広まり、それも廃れてしまいました」
     私はコロナ(自粛)禍以降、世間を問題視するようになりました。だから「地域の共同体が人と人との結びつきを支えていた」の件を思う時、日本の共同体は世間と重なる部分が多いため、共同体(≒世間)=私人の集まる集団、社会=個人が集まる公共空間と勝手に脳内変換してしまいます。
     日本人の行動原理は、私+私+私…=公なき集団(世間)だと思われます。そんな日本人の公は、戦前昭和なら好戦的な態度が(似非)公であり、令和ならコロナコワイが(似非)公であり…それぞれ異なる破局に向かいました。そんな公なき日本人の中で真正の公を担っていただいている存在が皇室や天皇だと考えられます。つまり私人が集まる共同体(≒世間)で私Aと私Bと私C…とを結びつける結節点こそが、公の体現者としての天皇や皇室であり、天皇と民の物語なのではないかと考えました。そして私人あるいは世間人でしかない劣等なる列島民を国民として統合する存在が天皇なのかもしれません。ゆえに天皇や皇室が失われたら列島民は空中分解しかねません。今、その物語を終わらせて劣等民もろとも葬り去ろうとしている勢力がいます。カルトに支えられたホシュ政党や自称ホシュの御仁らです。

    基礎医学研究者

    2022年8月3日

    さらに、興味深く読ませていただきました。ダダさん、および殉教さんも申されておりますが、「権威・宗教は手助けで、カルトは搾取」。これは、自分も思索が深まりました。なるほど、すべては「人との関係者」と考えると、単純な答えなど見つかるはずはないのに、「それは、ある」みたいな感じで言い切ってしまう所に、アブナサがあることが、改めて意識できた次第でございます。

    ダダ

    2022年8月2日

    L.Kさん
    お疲れ様です~。
    権威・宗教は手助けでカルトは搾取。これには膝を打ちました!

    あと本件とは全く関係ないんですけど、自分のブログがアップされるより、コメント紹介される方が恥ずかしいことに気付きました(/ω\)
    止めて欲しいという意味では無いので、今後とも宜しくお願いします(^^ゞ

    殉教@中立派

    2022年8月2日

    こうして改めて読んでみると、私も勉強になった箇所が多かった。
    (京都のSさん、基礎医学研究者さん)
     宗教は普遍を目指し、カルトは集金を目指す。カルトに入っている「宗教っぽい要素」は、効率よく集金する為の「道具」に過ぎないのか。それなら、(カルト団の)教えの内容は「普遍的に、人々の幸福へ繋がる」方向にはいかず、しかも集金システムにはまった人が暴走すると「金の切れ目が縁の切れ目」が、各地で起きてしまうと。ましてや、最大与党との癒着が、この問題を野放しにしている。戦後は「ヒロポンが国を滅ぼす!」と言われ、危険ドラッグの規制が進んだが・・・それよりも危険な状況だろうなあ・・・・

    (ダダさん)
    「すべての悩みは、人間関係に起因する」。これは、「ケーキを切れない非行少年」シリーズの宮口幸治氏も、近いことを言っています。「達成(テストで良い点を取るなど)+承認(その事で褒められる)は、2つで1セット。無人島で火おこしや魚釣りの腕を上げても、承認が無いと自己肯定感は育たない」という趣旨。ただ、「お手軽系の政治(by倉持師範)」「カルト」も、承認と自己肯定を与える装置ではあるが、それが日本を破壊してきたのは、歴史の示す通り。カウンター・デモクラシーなどの、新たな「承認」の物語が必要だろう。

    (なのフェイさん)
     近代~現代で、日本の学校が過敏になっている事。「いじめ問題の解決」「カンセンタイサクの徹底」「皇室や国旗など、右に繋がりそうな教育の回避」「政治と教育(※)」コロナ前から、教育は既に頓珍漢だったかもしれない。立て直す道はあるのだろうか。
    (※)ある女子高生が、選挙シーズンを前に「選挙と政治のキホン解説」ポスターを貼ったら「政治教育はダメ」という理由で、(学校から)撤去された事件

    (おわりに)
    ・ポストモダンとは「大きな物語が消滅し、各人が小さな物語を持つようになった時代」とされている。小さな物語=砂粒化と言えるだろう。せめて、日本一国で共有されうる物語を再生できないだろうか。そうして皇室を「活かす」のが理想的だが・・まずは「無関心」との戦いが先だろう。

    ・ふぇいさんの「コメントに返答ブログ」や、このブログは「双方向的」と言える。実際、「世界のゴー宣ファンサイト」では、最近「双方向的なディベートで、皇室を考える」という記事が多い。先日も「『ありもしない尊王心』とは何の事か?」の激論が、前編後編に分けて掲載される程の盛り上がり。
     このサイトの「双方向性」は、どんな形にしていくのか・・・独自色を出したい所。

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