連載、第2回目でございます<(_ _)>
2.【冊封による父系原理の浸透と、群臣推挙システム】~有力豪族たちの「推しメン」=倭王!?~
突然ですが、古墳時代の「讃・珍・済・興・武」って、歴史の授業とかに出てきたかと思いますが、皆さん覚えてます(※ワカタケルくらいですかね(;^_^A。編集者より)?もしかしたら「武 = 雄略天皇」くらいは、テストに出たよ、という方もいらっしゃるかも知れません。
シナが南北朝に分かれて対立していた五世紀頃、南朝の劉宋に遣使し、『宋書倭国伝』に記録された5人の「倭王」の名前です。先述した「武」を除いた「讃~興」まではそれぞれ、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康のいずれかの天皇にあたるといわれますが、諸説あり、よくわかっていません。
もちろん『古事記』『日本書紀』においては、これらの天皇はすべて「万世一系」的に同じ血縁関係となるように記述されています。動画の中で大塚氏が系図に起こしたのも、大本は『記』『紀』の記述に依拠しての事でしょう。
しかしながら、私がこれまで投稿したブログの中でも幾度となく参考にさせていただいた、『女帝の古代王権史』の著者である義江明子氏は、四~五世紀にかけてのヤマト王権における「王位の世襲継承」に対して、疑問を呈しておられます。
義江氏曰く、百済などの周辺諸国の王が、シナ皇帝へ使者を派遣した際、シナ側が前王の「子」とみなして記録していたとしても、実際には父子ではない場合もあったり、逆に朝貢する周辺諸国の側が、前王との親子関係を主張し、シナ側が認めたとしても、本当の父子であったとは限らないそうです。
例えば「弟」という記述も、実際の血縁関係ではなく、王位継承候補者の中の「同世代年少者」を指した蓋然性が高いとの事です。
実際、五世紀の倭王は豪族連合の盟主であり、血縁による世襲ではなく、政治的実力のあるものが王として推挙されたと、義江氏は主張しています。
皆さんご存じの通り、令和の現在においてこそ、憲法のもとで皇位は「世襲」と明確に定められ、皇室典範第2条により「皇長子」を第一として、継承順位が決められています。
少なくとも現行制度上は、「兄と弟、どっちが天皇に相応しいか?」みたいな疑義が生じる余地は無いのです。
ところが、というか当然ながらというか、四~五世紀にかけての日本においては、血統によって継承順位が定まっていたわけでは決してなく、豪族連合政権の中で常に複数の有力候補者が並立しており、それぞれの群臣が意中の「王候補」を擁立して争っていたそうです。
まさに、それぞれの豪族勢力の中の最有力「推しメン」が、センター・・・もとい「倭王」に即位できた、という事でしょう。
有力な群臣から推挙され、即位したそれぞれの王は、シナ向けに「倭讃」「倭済」などの“姓”を名乗る事で、前王との政治的な連続性を確保し、王としての地位を確かなものにしたそうです。
「倭の五王」が、それぞれ同じように「倭」姓を名乗っていたとしても、それが血縁上の(つまり「父系継承」という)連続性を意味するとは、決して断定できないのです。
※ ところで、俺は参加した事ないから何とも言えんけど、AKBの総選挙ってのも、こんなカンジだったのかな・・・?
大塚氏のオトモダチの某「ストロング皇室史学者」は、皇位継承はAKBの人気投票とは違う、みたいなことを以前言ってましたけど、今回みたように少なくとも古墳時代の日本においては、当たらずとも遠からずな状態だったみたいですよ??
(中の中編)につづく
文責 北海道 突撃一番
4 件のコメント
殉教@中立派
2023年3月23日
属国だった古代日本。
「王」は、チャイナの皇帝(天命思想によって選ばれた天子)から与えられる称号で、皇帝より格下。倭は、匈奴・鮮卑と同じく、異民族への蔑称。
そんな時代背景を見ると・・・実力主義で王を選んだのも、他国に舐められない為にも、止むを得なかったと思う。しかも、この時の王は「天皇」でなく、世襲制度も無かった。
突撃さんの追加コメント通り、天智天皇など、大きな戦に立ち会った帝もいる。近代の明治天皇は武人としての一面もあり、「軍を統帥する」と明治憲法にも書いてあるが。実際は、その「統帥権」は軍部に悪用されていたのが、古代との違い。つまり、権威と権力が一体になっていた時代のこと。
こうした時代では「研鑽」「指導力」が、今以上にリーダーに求められる素養だよなあ・・と納得出来ました。
突撃一番
2023年3月23日
確かに・・・!
京都のSさんご指摘のように、AKBのメンバーとて、自己研鑽を積むことでセンターの座を獲得するのですよね!
「夢を見るだけなら優しくもなれるけど、ちゃんと叶えようと思うったら・・・」ストイックさも必要だと、そんな歌もあった事を思い出しました。
「誡太子の書」にも明らかなように、現在の天皇・皇族が決して「血縁」に奢る事なく、研鑽を積まれている事は間違いありませんが、倭の五王の時代の王には「軍事的統率者」としての側面もあったようなので、より政治的実力が求められていたであろう事は、なんとなく想像つきますよね。
基礎医学研究者
2023年3月23日
(編集者からの割り込みコメント)いや、まず「次の天皇選びは、AKBのセンター選びにようなものですかね?」というのは、ビビりました。「一体、何を?」と一瞬思いましたが、たしかに先に京都のSさんもご指摘のように、「倉山」が放言していましたね(それと掛けていたのは、”巧い”です(^_^)。で、今回も勉強になりました。そうか、天皇選びは豪族の有力者からの集合体!と考えると、これは非常に重要でいわゆる「血統」などという概念は成り立たなくなってしまいますね(決して皇統譜に逆らうわけではないのですが、これは重要な指摘で、勉強になります)。「ダンケー」の方々は、この点を指摘されたら”逆ギレ”しそうなのが、目に浮かびます。次回も、楽しみにしております。
追伸・・・突撃一番さん。連載担当、お任せください(`・ω・´)ゞ。また、義江氏の著作は自分は原典に当たったことがないのですが、ちょうど1年前の朝日新聞で、義江氏の論考を取り上げたものに意見・コメントを書いたことがあるので、注目していました。なので、今回の編集を通じて自分も勉強させてもらうことに。
京都のS(サタンのSでも飼い慣らすし)
2023年3月23日
なるほど。「天皇の歴史は応神あたりからだ」と左方向から聞こえてきたのには理由があったわけですね。当時は近親婚に近い例も多くあり、かつ豪族間の血縁関係も濃かったでしょうから、順に推挙された各王が「万葉一統」の構成員だったという物語は揺るがないと私は考えています。
暗山マン@ゲロ嘔吐スタイルが「天皇はAKBのセンターじゃない」などと言っても、現在の皇室でも継承資格者は「自己研鑽」することで国民の応援や支持を集めているという意味で「総選挙」的側面はあります。ただ両者が決定的に違うのは、AKBの場合は秋元のゴリ押しが有効に働くのに対し、まず皇族方は憲法で世襲と決まっており、さらに現行典範では男系男子とされていることです。しかしながら、憲法は「国民の総意に基づく」ことも要請しているので、皇族方は自己研鑽されるわけです。つまり、古代の豪族or現代の国民(AKBのファン)の推挙(指示)も継承資格者自身の研鑽(各メンバーの努力)も総選挙の重要な要素ですから、暗山の言い掛かりは完全に的外れだと言えますね。