「正直なウソつき」の、『嘘だらけ』古代史語録⑬

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【終章③】

●「立皇嗣の礼」において、天皇陛下から秋篠宮殿下に皇太子の証たる「壺切御剣」が授けられたのは、「秋篠宮に皇位を伝える」という、天皇陛下の大御心の表れである。(p265)(前編)
~倉山満『嘘だらけの日本古代史』 終章より~

○まず、前提を確認しましょうか。

「豊葦原の千五百秋の瑞穂国(=日本)」の王たる証は、壺切御剣ではなく「三種の神器」です。

当然ながら、まだ壺切御剣が誕生していなかった平安時代以前は、称徳天皇のように壺切御剣ナシで立太子された方は大勢いらっしゃいます。

平安時代に入ってからも、後述する後三条天皇のように、「壺切は不要である」と言い切ってしまった天皇までいらっしゃいます。

壺切御剣を賜ったからといって、その方が絶対に即位されるとも限らず(実際、秋篠宮さまは即位を辞退されている)、また逆に、御剣を賜らなかったからといって、立太子も天皇即位も出来ない、という訳ではない。 この点はまず、押さえておきましょう。

三種の神器を賜った時に初めて、「王としてのシンボルを得た」と言えるんですよ。

大体、平安時代になってからポッと出の「新例」に過ぎない壺切御剣に過剰なまでに拘泥するのは、倉山のお家芸たる「先例主義」に照らし合わせても、矛盾するんじゃないのかい?

「壺切御剣は皇太子の証(p262)」とまで主張するなら、飛鳥浄御原令における皇太子制度確立以来、宇多天皇に至るまでの歴代天皇は全て、「ウソ皇太子だった」という事でいいのかね?

立太子に際し天皇から剣を賜ったのは、なんと宇多天皇の子である醍醐天皇(敦仁親王)がはじまり。これまた藤原氏の陰謀のニオイがプンプンしますねwww)

その壺切御剣ですら、歴史上2回も紛失していますけどね。

仔細は以下の通り。

1 平安時代後期に発生した内裏の火災で焼失、二代目が新造された
2 二代目も承久の乱の折に紛失し、三代目が新造された
3 亀山天皇立太子の際に二代目が発見され、三代目は廃された。

どうでしょう?

「失くしたら新しく作り直す」とか「失くしたやつが見つかったから、やっぱり古い方の剣にすげ替える」という事がフツーに行われていた辺り、三種の神器に比べて、扱いが随分軽くないですかね??

なかなか融通の利く”シンボル”ですことwww

一方、源平合戦で「三種の神器」が水没した際、海人に散々探させても、祈祷をしても見つからず、神器(草薙の剣)ナシで即位された後鳥羽天皇は、後々までコンプレックスを抱かれる事になってしまいました。三種の神器の「御分身」は、紛失したからといって、そう簡単に作れるものではないみたいですね。

大体、壺切御剣ってのは、元々は平安時代、藤原氏出身皇太子の地位安定化の為に創設されたシロモノじゃないですか。

実際、第70代·後冷泉天皇の弟宮である尊仁親王(=第71代·後三条天皇)が東宮となられた際には、時の関白・藤原頼通が、尊仁親王が藤原氏を外戚としないからという理由で、壺切御剣の献上を拒否するという出来事もありました。

尊仁親王は、「ならば壺切は不要である」と述べられ、親王が東宮であった23年間、「東宮としてのシンボル無し」の状態が続いた事になります(即位後に献上された)。

天皇自ら「不要だ」と言い切ってしまうような刀が、それ程重要だとも思えませんが?

文責 北海道 突撃一番

6 件のコメント

    サトル

    2024年1月21日

    非常に興味深く拝読しました。また痛烈な「返し」が小気味良い……です。
    ……私見ですが、どうもダンケーの基本姿勢は明治維新において、天皇家を「錦の御旗」とし、利用した側面を踏襲している気がしています。
    もちろん、尊皇としての維新の志士も多く存在したと思いますが、どうも「権力構造」として悪用しようとする心根の手合いが現代のダンケーや支持者に多い気が致します。

    基礎医学研究者

    2024年1月20日

    (編集者からの割り込みコメント)今回は、非常に示唆的でした。実は自分、まだ運営側にたずさわる前に、一投稿者として”愛子さまと「立太子の礼」について”と題して、皇太子と記念切手というトリビアを意図した連載ブログを掲載させてもらったことがあるのですが(https://aiko-sama.com/archives/10679)、そこで”壺切御剣”のことがでてきました。自分は切手の図案という観点から壺切御剣のことをとりあげたのですが(ごく最近までは「秘宝」とされて現物をみることもできなかったようですが)、壺切御剣は、皇太子に継承される必須のアイテム、という位置づけでもなかったのですね(言われてみると、秋篠宮さまは皇太子が着用される、黄丹袍をまとっていますしね(;^_^A)。自分は、当時は秋篠宮さまには壺切御剣が継承されてないだろう、という認識でブログを書きましたが、その認識も改められてよかったと思います。次回を、楽しみにしております。

    京都のS(サタンのSじゃねーし)

    2024年1月20日

     「光る君へ」という『源氏物語』の作者・紫式部を主人公とする大河ドラマを放送中なので、劇中に登場する「桐壺」(壺切ならぬww)のエピソードを一つ。
     桐壺帝は身分の高くない女性(桐壺更衣)を愛し、彼女との間に美しい皇子(光源氏)をもうけましたが、桐壺更衣は他の女房たちから嫉妬とイジメにより、光源氏が3歳の時に病で亡くなりました。 未練たらたらの帝は桐壺更衣と瓜二つの藤壺(先帝の皇女)を入内させました。 しかし藤壺は帝の寵愛を受ける一方で光源氏とも密通していました。
     何が言いたいかというと、倉山ら男系派が拘る神武から続くY染色体とやらは、間男のYとすり替わっている可能性が極大だということです。たまたま光源氏は皇胤(男系子孫)だったからOKという話ではありません。
     そもそも記紀神話には女神や姫が寝所に「丹塗り矢」を持ち込むエピソードが多く出てきますが、あれは男神や貴公子のアプローチを受けた女神や姫が合意の上で迎え入れたエピソードなのでしょう。これが日本の国柄なのです。これが嫌なら男系派は韓国へでも移住すべきなのです。

    突撃一番

    2024年1月19日

    コメントありがとうございます!

    磐石な支持基盤に胡座をかいて、憲法も君臣の別も踏みにじろうとしたり、安倍晋三のように、天皇の退位を妨害したり・・・

    今の自民党政権って、なんか藤原摂関家みたい。

    二世議員多いから「ほぼ世襲」みたいなもんだし、党内でいろんな会派に分かれてる辺りも、藤原一族内の派閥争いみたいだし。

    人は成長しない。

    SSKA

    2024年1月19日

    藤原氏を美化しているようですけど、権力闘争に利用される皇室が理想って事ですかね。
    宮廷文化は発展しましたが、その間朝廷内は政争に明け暮れ、軍事を手放したせいで治安機構としての役目を果たさない為に足元の京から地方まで治安は乱れ切って荒廃した時代です(能登震災で見えた地方置き去りや自民党の政治と裏金問題と重なるのも皮肉)。
    知識階級気取りで中央政府のみを重んじる姿勢が良く分かりますが、争い好きな性格と近代文明への復讐心により国民の反発を招き皇室を煩わせる考え以外の何物でもありません。
    壺切御剣については皇室経済法7条により、あくまでも法的所有者は天皇陛下との事ですから、変動可能な皇嗣と言う立場同様に一時的に御預かりしている以上の意味を持たない印象を受けます。
    当事者が皇太子(弟)を固辞し、政府も用いないのに勝手に決め付ける方が失礼ではないでしょうか。

    mantokun

    2024年1月19日

    突撃一番様、詳しいご説明も入れながらの解説がとても理解しやすく、倉山の駄本の問題点が明確に分かります。ありがとうございます。

    天皇は国政に関する権能を有しないからこそ、天皇陛下は儀式次第に則り壺切御剣を授けられ、秋篠宮殿下も受け取られた、それだけのことです。ただし、それがお二人と上皇陛下のご意思に沿っているか、皇位の安定継承につながっているかは全く別問題です。

    男系固執派ってどいつもこいつも「天皇陛下も秋篠宮殿下も儀式を拒否しないんだから、秋篠宮家への皇位継承を望んでるに決まってるだろう」とドヤ顔で、秋篠宮殿下のご即位が既定路線であるかのように言いふらしてますが、国政に関する権能を有しない天皇や皇族方が勝手に国事行為を拒否できるわけがありません。男系固執派の「拒否しないから望んでるんだ」という発想はストーカーそのもので、言ってること、やってることがことごとく変質者、犯罪者のそれなんですよね。どうりで全員、粘着質で言葉遣いが下品で、共感性や想像力が完全に欠如していて、公共心もなく、皇族方を物か奴隷のように扱って平然としていられるわけです。

    藤原氏出身の皇太子を正当化するための壺切御剣を草薙御剣より有り難がったり、称制はしなかったと藤原氏を称えたり、倉山は天皇より藤原摂関家の方が尊貴だと思ってるんじゃないでしょうか?皇室研究家より藤原摂関家の研究家に肩書を変えればいいのに。

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