●「皇室にもジェンダー平等を」と主張するなら、男が皇后になれないのは差別なのか?
倉山満「言論ストロングスタイル vol222」『週刊SPA!』2024年2月27日号より
〇単に呼び方の問題でしょ?
「男性皇族が内親王・女王になれないのは差別だ!」とか、「男が魔法少女になれないのは差別だ!」などとホザくバカタレが、この国の一体どこにおりますか?
それと全く同じレベルだぞ。
もっとも、男がプリキュアになった「先例」なら、どうやら存在するらしいが。
まあ、どうでもいいか。
いい機会だから、「皇后」という御称号が一体どれ程重い意味を持って成立したのか、これまでの私の投稿ブログでもすっかりおなじみの義江明子さんに再登場していただいて、考察してみましょう。
義江氏曰く、「皇后」という称号が制度的に確立されたのは、689年の飛鳥浄御原令においてです。
「神功皇后」という称号にも顕著なように、日本書紀上では、初代神武天皇のキサキであるヒメタタライスズヒメ以降についても「皇后」の字を当ててはいますが、厩戸王の「皇太子」という表記同様、書紀編纂時点で既に定着していた呼び方を、そのまま遡って当てはめただけなのでしょう。
が、実質的な意味で「皇后」としての地位を固めていったのは、飛鳥浄御原令が成立する少し前、天武天皇のキサキであった鸕野讃良皇女、のちの持統天皇が最初だそうです。
西暦にして679年5月、時の天武天皇は、「壬申の乱」で自身が挙兵した拠点である吉野において、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基の6人の御子との間に、有名な「吉野の盟約」を交わします。
御子達を懐に抱いた天武は、「それぞれの母は異なるが、一人の母から生まれたのと同様に慈しもう」と、固く誓われたのでした。
ここで重要なのは、日本書紀上で「皇后」と表記された鸕野もまた、6人の御子を抱き、同様の誓いをされたという点です。
天皇に、複数のキサキがいるのが当たり前だった当時は、まだ双系的親族結合の特質を反映して、父親よりも母子間の結びつきが強い時代でした。
母親を異にするそれぞれのミコ達も、自分の母の宮殿を拠点として生活していたので、異母の兄弟姉妹とは対立関係になりがちでした。
特に王位継承をめぐる将来的な争いを未然に防ぐため、異腹の兄弟であっても皇后・鸕野を「共通の母」だと擬制する必要があったのです。
義江氏はこの「吉野の盟約」を、「複数のキサキの中での鸕野の特別な地位を明示する上では、明らかに大きな意味があった」と分析しています。
さらに、天武天皇11(682)年7月、壬申の乱において功績のあった群臣の一人である膳臣摩漏(かしわでのおみまろ)が亡くなった際には、天皇から贈位・贈禄を賜っただけでなく、皇后からも、特に賜り物があったそうです
倉山満が盲信する『日本書紀』の、持統称制の前期の章において、「皇后は、終始天皇を助けて天下を安定させ、常に良き助言で、政治の面でも輔弼の任を果たされた。」(宇治谷p313)と記述されている事も、天武8年の「吉野の盟約」以降の、鸕野のこういった活動の成果を反映しての事だと、義江氏は分析しています。
最初に述べたように、「皇后」号の制度的確立は689年の飛鳥浄御原令においてですが、鸕野はそれに先立って、実質「皇后」としての立場を固めていったといえます。
天武天皇主導の下、中央集権的な国家体制を築き上げていく中で、複数いたキサキの中でも特別な存在として成立した「皇后」という称号には、正妻として天皇を補佐するという「立場の重さ」を、感じ取ることが出来るのではないでしょうか?
(この項、続く)
文責 北海道 突撃一番
参考文献
・義江明子『女帝の古代王権史』
・義江明子『天武天皇と持統天皇』
・宇治谷孟『日本書紀(下) 全現代語訳』
講談社学術文庫1988年8月10日
2 件のコメント
突撃一番
2024年3月6日
コメントありがとうございます!
夫である天皇が亡くなったのちに、その配偶者である皇后が即位するという習慣は、ある意味直系による世襲継承の未発達を象徴する事でもあると思います。
その反面、義江氏の著書にもあるように、政治的実力さえあれば、性別を問わず統治者となれる、という大らかさは、「双系的血統観」を反映していると言えるかも知れませんね。
SSKA
2024年3月6日
倉山の主張が如何に浅いものか改めて実感する内容でした。
「男が皇后になれない」とせこい言い掛かりでは無く、同姓不婚の他国と違い皇族ならば皇后(妻や女性)も天皇になれるのが我が国であると双系システムを誇りに思うのが日本のあり方と考えます。
皇后であっても皇族か他氏の者かで意識は全く異なるはずですから、父系のみに偏らない寛容な血統観と女性の能力を正当に評価するのが日本の古代の考えで現在の価値観に沿う形で修正しながら採用すればいいだけの話です。