343空、剣部隊司令官の源田実氏をご紹介します(その3)

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引き続きまして、海軍で上も下も思考の停止した大艦巨砲主義に異議を唱え、周りから異端の奴で厄介な奴と言われた源田実氏をご紹介致します。(前回のあらすじを含みます。)


源田実氏は海軍にて未来の戦闘に戦闘機は重要と気づき、海軍の頭の固い軍人、上層部に、各地で献納の戦闘機でパフォーマンスしたり、戦闘機を主戦とした戦闘機の有用性、急降下爆激で海戦を制すると訴えていました。しかし、大艦巨砲主義で新しい考えを拒否し現状に満足していた海軍の上層部に中々して現状を打開できず、”あんの馬鹿共が!!国防をなめとるのか!”と腸が煮えていた時、ある人に航空参謀になる為に海軍大学校に入ってはどうか?と声をかけられました(海軍大学校とは上級将校育成機関であり、今でいう海上自衛隊幹部学校のようです)。

その人物は大西瀧治郎、後の特攻隊の父と呼ばれる軍人で、源田実氏と一年同期であり、源田実氏の思想を理解出来る人物だった、という話があります。

2人のエピソードで、ある日、戦闘機テストにて源田は試作機の一つに上昇力・速力に問題はないとしつつも、射撃性能・着艦性能は特に優れていると感じられず、舵の効きも問題視して格闘性能にも疑問を感じ、その後の採用会議で源田は空戦の検証をせずに1本に絞ることに反対したそうです。そのさい、横須賀航空隊教頭だった大西瀧治郎もそれを支持して、(Wikipediaによると)「中央当局は単に机上の空論に頼ることなく、もっと実際に身をもって飛ぶ人の披見を尊重して方針を定められたい」と意見したそうです。

また、当時の源田実氏はこのまま戦闘機パイロットでいこうとしたところ、大西氏から「日ごろ訴える航空政策を実現したければそれなりの下地が必要である。また源田には高効率の軍備を作り上げてもらいたい、航空参謀とかどうだろう?」と説得され、海軍大学校を受験し、1935年(昭和10年)10月31日に海軍大学校35期甲種学生となり、航空参謀の道を歩み始めました。ちなみに海軍大学校の卒業生に、後の真珠湾攻撃で作戦をともにする山本五十六元帥や南雲大将がおり、また昭和天皇の弟君の高松宮宣仁親王もおられました。源田実氏は大学にて学び、空を制するは国防に置いて最も大事、大艦巨砲主義を打ち砕き、戦闘機が活躍する新しい戦闘を持ち込まねばと進みます。

その後源田実氏は海軍大学校を次席で卒業し、航空参謀として、シナ事変にて第二連合航空隊司令参謀に就きました。ここから源田実氏の本領が発揮して行きます。シナ事変では南京制圧にて作戦を展開し、源田実氏は戦闘機で広域制空を行う制空隊を提唱し、実行しました。当時のシナを治めていた国民党は日本軍の戦闘機は偵察だけで攻撃に使わないと腹を括って油断していたところ、源田実氏は戦闘機による攻撃にて攻撃した陣地を囮で救援に来た戦闘機隊相手に待ち伏せ行い、大打撃を与えました。この攪乱戦法により日本と国民党軍の航空戦にて日本は喪失4機に対して国民党軍の撃墜40機を記録したとあります。
 また、源田実氏はシナの奥地で敵が怪しい動きをしていると話を聞くと戦闘機等の燃料補給に中継地点を作ればと提案し、戦闘機が活躍する場を作っていき、益々今後は戦闘機の必要性を訴えて行きました。

今回はこれにて、その4に続きます。
次回は戦闘機大好きおじさん源田実と零戦の話からです。

文責 (色々アヤシイ)神奈川県 神奈川のY

1 件のコメント

    あしたのジョージ

    2024年10月11日

    神奈川のYさん、源田実氏の話、ありがとうございました。
    航空参謀の道が天才的に向いている人だったみたいですね!
    先見の明がある人は、最初は中々周りから受け入れがたい存在だと思いますが、本領発揮すれば誰も敵わない人になると思います。

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