引き続きまして、戦後の剣部隊の仲間達と源田実氏をご紹介します。(前回のあらすじを含みます。)
*今回、皇室の話はでてきませんが、これまでの流れで、戦後も戦前と変わらず、皇室を敬愛している男たちの物語、という文脈で読んでいただければ、幸いです。(by基礎医)
戦後、源田実氏は民間企業の社長になるも、しっくり来ず、1953年(昭和28年)に防衛庁入庁し、航空幕僚監部装備部長として、航空自衛隊に入隊します(*この年って、小林よしのり先生、誕生の年ですよね。あと、科学者にとっても重要な年なのですよね。ワトソンとクリックが、DNAの2重らせん構造を解明した。ハンス・クレブスが、オルニチン回路、TCA回路の発見でノーベル生理医学賞をもらったby基礎医)。この時、自衛隊人事を作っていた初代航空幕僚長・上村健太郎氏が佐薙毅氏を副長に依頼するとき、佐薙が「源田をとるなら」という条件を出したため要請されたとあります。この時、戦前、源田実氏が対米強硬派の艦隊派(航空派)であったことを理由に旧海軍の権力者が反対し人事をやり直すように指示があったそうです。 源田実氏は海軍の中でも好き嫌いがはっきりと分かれ、特に大艦巨砲主義者から嫌われていたと伺えます。源田実氏や剣部隊のくせ者達を苦々しく思っていたのでしょうか。戦前のしこりをまだ引きずる、大艦巨砲主義の輩は器が小さいのでは?と感じます。小さい器の者ほど大きいものを好むのでしょうか。昨今の虎の威を借る狐よろしくと、男系固執議員や人々に共通する事だと思いました。 上村氏は「佐薙も源田も必要だ。駄目なら私も辞退する」と言って人事を通し、源田実氏を迎えました。
この時の源田実氏は、 空自で副官を務めた金子正生空将いわく、「源田を唯我独尊の人で好かれるタイプではなかったかもしれない、最も近くで見ていたが、戦時のイメージを大切にしていたようで人前で酒を飲まず、私生活を見せない人で最後まで何者かわからなかった、しかし自分にとっては大きな存在であった。」と話があります(ウィキペディア参照)。
何者か分からない源田実氏ですが、源田実氏の姿を書籍や新聞、ウィキペディア等で調べられるものの、本人がどんな性格でどんな事を思っていたのかは中々して難しく、私生活のエピソードも本人の口からと言うより、周りの証言から来ているものがあり、背中を追うのが難しい人です。 ただ、剣部隊で志賀淑雄大尉と2人で談笑している写真からは、頼もしく親しみやすい戦闘機乗組員のオヤジと感じ、軍服で猛禽類の眼差しを向けている写真では、ただならぬ雰囲気の軍人と観えます。また、あるYouTubeに紫電改の特番で、源田実氏が航空主戦を話した場面があり、そこでは頭の回転が早く、生き生きして話す姿からは、根っからの戦闘機乗りで航空参謀だったんだなと伺える事が出来ます。
また、「源田は空自でも地上にいるような人ではなく現場に入ってくる実行派の人であった」と言われ、 源田実氏は後に、次に生まれても戦闘機パイロットになる!と言葉を残したほど戦闘機愛が顕在で、国産ジェット機を目指し、源田実氏は隊員に対し「一日も早く米軍ジェット機の操縦をものにしろ」と命じ、率先してジェット機の操縦資格を取得し、航空自衛隊パイロットの育成に力を注ぎました。ここから空自発祥の地である浜松第一航空団を「源田航空団」と呼ばれたそうです。 ここでも剣部隊でのオヤジとして腕を振るいます。 1959年(昭和34年)7月18日、源田実氏が航空幕僚長就任し、米空軍サンダーバーズの日本公演を見た源田実氏は血が滾ります。戦前は源田実サーカス団を率いて、国民を元気づけ、剣部隊では見事な編隊飛行でアメリカを苦戦させました。 日本にも出来るはずだ、散っていった仲間達の意思を引き継がせよう!と、航空自衛隊によるブルーインパルスの構想を打ち出します。源田実氏はブルーインパルスの育ての親となる稲田淳美氏をバックアップし、当時疑問視された編隊飛行訓練を公的に訓練可能とし事故も名誉ある扱いに処置し、選定された者のみ行うよう規制もしました。
この時、東京オリンピック開催近く、陸海自衛隊には協力要請がありましたが、空自には来なかったため、源田実氏は空に五輪を描くことを発案しました。色々困難で、パイロットからも不可能だと思われていたそうですが、源田実氏は実現のため、ブルーインパルスの演技に政治家やJOC、財界人など関係者を招待して観せたり、各方面に奔走しました。元剣部隊の仲間達も協力しており、源田実氏の人脈を駆使しました。 ちなみに、元剣部隊の志賀淑雄大尉は戦後、 ノーベル工業に入社し、主に警察官の護身装備(防弾・防刃チョッキ)、伸縮式特殊警棒、爆発物処理機材などを開発し、社長に就任、1994年(平成6年)会長に退くまで務めたそうです。 また、志賀淑雄大尉は自衛隊や米軍からたびたび招待された講演や式典で零戦搭乗員として大好評であり、また、戦死者に対する慰霊活動にも努めていました。有名なエピソードでは、昭和天皇の大喪の礼に元日本海軍士官の代表の一人として招待され、胸ポケットに戦死した部下の名簿を忍ばせて御冥福を祈ったという話が残っています。 また、部下達を大事にした話では、零戦搭乗員会の代表(4代目)を務めていたさい、撃墜数を尋ねられた志賀淑雄大尉は「単独撃墜は六機でございます。あと協同撃墜はもっと多うございます。ある程度撃っておいて、まだ撃墜記録のない新参の列機に墜させるんでございます」と答えていたそうで、さすが剣部隊のお袋と感じます。
また、杉田庄一少尉と菅野直隊長に可愛がられていた笠井智一氏は、一度源田実氏に一緒に自衛隊に入らないか?と誘われるも、両親に、身内にパイロットとして戦死した者もいて、もうパイロットだけはやめてほしいと反対され断念されたそうです。しかし、彼の心はずっと剣部隊にあり、慰霊式や杉田庄一少尉の慰霊等尽力し、後世まで剣部隊を語った一人でした。戦後は定年するまで大阪セメントに入社し、定年まで働いたそうです。 憲兵を叩きのめした小高登貫氏は、復員後、看板塗装業、鈑金業に従事され、1954年からオートバイ修理販売業に従事し、1961年松本市にホンダ代理店の小高誠輪社を創立、社長に就任したとあります。オートバイのセールスマンとして日本一の成績を挙げて表彰されたこともあったとか。経営のかたわら、所有するセスナ機を自ら操縦して飛んでいたあたり、剣部隊のパイロット魂が疼いたのでしょうか。バイタリティ溢れています。 また、本田 稔氏は源田実氏と航空自衛隊に入り、パイロットの養成やテストパイロットを務めました。退役後は三菱重工業で試験操縦士を務めたそうです。なんと戦後を含めた飛行時間は9,800時間になります。本田氏は大戦の経験と三菱のテストパイロットとしての外遊資料から、当時の若年搭乗員で12機編隊着陸が一様にできた操縦性、腕比利用による高低速両用の操縦性で紫電改を評価し、大戦末期における双璧は紫電改とマスタングであると述べていたそうです。
今回の話はここまで、次回はブルーインパルス創設と源田実氏政界進出の話です。その21に続く。
文責 神奈川県 神奈川のY
4 件のコメント
神奈川のY
2024年12月21日
あしたのジョージさま、コメントありがとうございます。源田実氏は戦後も色々ありますが、彼の前向きさに救われる事があります。今インフルが流行ってますのでお大事にです。
あしたのジョージ
2024年12月21日
源田実氏はかなりエネルギッシュな人で、天性の戦闘機乗りだったと思います。
多くの仲間達を失いつつも前向きに人生を進んで行く生き方は、見習うべきものがあります。
私のような気力、体力、胆力のない人には。
今体調を崩しているし。🤒
神奈川のY
2024年12月20日
基礎医さま、コメントありがとうございます。源田実氏は不思議な人でありまして、追っていて楽しいと感じました。ちなみに源田実氏は太平洋の翼という映画のベースになる本も書いていて、よしりん先生と同じマルチタレントの才があると思いました。不思議なご縁感じます。源田実氏は終始国の事を考えていたのではと思いました。
基礎医学研究者
2024年12月20日
(編集者からの割り込みコメント)前回は、ある意味、自分の中でクライマックス的な部分でしたのに、感想かけず後悔ρ( ̄ε ̄。)。
今回は、戦前の気概を持った人達が、戦後を生きる感覚がおもしろかった。憲法に戦力不保持が書かれようとも、国防という感覚は忘れていませんよね?少なくとも、源田実氏からは、「アメリカに守ってもらう!」などという感覚は微塵もなく、国体を護るために、自主防衛を模索する!その気概が、やはり伝わってきますかね。