引き続き、真珠湾攻撃、ソロモン諸島の戦い経て活躍する岩本徹三氏をご紹介します。
岩本徹三氏はミッドウェー敗戦後、戦況悪化に伴い、1943年11月に、戦闘機乗りの墓場と言われたラバウルへ向かい、第二〇一航空隊に編入します。第二〇一航空隊は、主に護衛・迎撃・戦闘・特攻・陸戦に従事した部隊で、当時はアメリカにボコボコにされていました。
当然、部隊の士気は高くなく、生きて帰れるか分からない状態でしたが、しかし、岩本徹三氏は士気高く、ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け、迎撃のため出撃します。岩本徹三氏は同じく出撃した中隊9名を護りながら、アメリカの戦闘機と戦い、損害を出さず7機を撃墜します。
戦闘のさい、岩本徹三氏は五感鋭く、敵を感知し、敵の裏をかきつつ撃ち落としていきます。
岩本徹三氏のいるところに士気高く、隊全体で敵52機を撃墜する大戦果をあげました。また岩本徹三氏は三号爆弾という、下線の放射状に爆撃出来るという扱いづらい兵器を使用し、計算とタイミングが1秒でもずれれば死ぬというくらいの仕様で扱えたのは岩本徹三氏くらいと言われます。岩本徹三氏と部隊は三号爆弾を使用し、敵14機編隊を一度に撃墜したりと激戦します。また、当時の海軍戦闘機隊搭乗員は二直交代勤務に就くことが多かったそうですが、岩本徹三氏は直長として編隊指揮を執ったとあります。また、搭乗士官(飛曹長=准士官)として空中指揮を担当して戦います。(ウィキペディア参照。)
ちなみに、激戦地区のパイロットの寿命は3ヶ月あれば良いと言われたそうです。 また、岩本徹三氏は1943年の12月に第二〇四海軍航空隊へ異動します。上司からブーゲンビル島のタロキナ飛行場への攻撃任務を命じられた 先任の飛曹長が涙目になっていたところに鉢合わせし、
“だったら、俺がやる!”
と任務を買って出ました。帰れる保障が無い無謀な作戦にも怯まず、なんと岩本徹三氏は単機で出撃し、奇襲をかけ、敵の飛行場の20機以上の米軍機を銃撃で破壊して暴れまわり、無事に帰還しました。
敵からは20から30機の零戦を1000機で戦っているに違いない!!と恐れられて本国に救援を頼んだほど、ラバウルの空は敵からも恐ろしい場になります。
そして、岩本徹三氏は、上司の無謀で部下が死地に行くのを見逃せない、今も昔も日本を護る人に共通する、”義を見てせざるは勇なきなり”という気質があるパイロットとして名を馳せていきます。
また、転戦しつつ岩本徹三氏は郷里である、益田にもニュース映画を通して知られたそうで、岩本徹三氏が搭乗したゼロ戦のプロペラが益田小学校に展示されたとあります。また、この時、ニュース映画を見てある女学生が、岩本徹三氏の大ファンとなり、戦後にお見合いして結婚する事になります。
また戦況激しい1944年の1月に、二五三空に異動となり、岩本徹三氏の相棒の零戦には撃墜数を表す桜のマークが60〜70個も描かれており、目立つ存在になり、
遠目からは機体後部がピンク色に見えたそうです。まさに桜満開です。
この見目麗しい、深窓の令嬢とも例えられていた零戦に、敵方が吸い寄せられ、狙いに来るも、岩本徹三氏と見目麗しい令嬢(零戦)にことごとく返り討ちにします。今回はここまで、次回は岩本徹三氏と桜満開の零戦のご令嬢と日本の行く末をご紹介致します。(その三)に続きます。
文責:神奈川県 神奈川のY。
2 件のコメント
神奈川のY
2025年3月30日
あしたのジョージさま、コメントありがとうございます。岩本徹三氏の活躍、まだまだあります故、引き続き読んで頂けると幸いです。零戦の桜満開を観てみたいですね。
あしたのジョージ
2025年3月30日
岩本徹三氏の話を聞けば聞くほど凄い人だったと言うしかありません。
零戦と言えば、岩本徹三氏氏とセットみたいです。
私が子供時代に少年ジャンプに連載していたサーキットの狼という漫画がありましたが、その主人公が乗るロータスヨーロッパのボンネットに公道レースでの撃墜数を表す星のマークがありました。
もしかしたら元ネタは、岩本徹三氏かもしれませんね。
なんにしても国を護る気概が、半端じゃない事はわかります。