大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は観ておられますか?このドラマは、蘇我・藤原・平といった豪族や貴族(※平家は武士でありながら貴族化していた)が男性天皇に娘を輿入れさせて政権を握っていた古代(飛鳥時代~平安時代)を終わらせ、帝の居られる都から離れた地で武士が軍事政権(幕府)を打ち立てる中世(鎌倉時代~室町時代)へ移行する期間の関東地方を生々しく描く作品です。そして本作には、恐いぐらいに強かな女性が数多く登場します。
源頼朝(大泉洋)に強引に近づいて御台所となり夫を最高権力者へと押し上げた北条政子(小池栄子)、北条義時(小栗旬)の”惚れた弱み”を利用しまくった伊東八重(新垣結衣)、静御前(石橋静河)への嫉妬から夫の源義経(菅田将暉)を土佐坊昌俊に襲わせた”さと”(三浦透子)、比企能員(佐藤二朗)に鎌倉支配を焚きつけた道(堀内敬子)、北条時政(坂東彌十郎)の後妻で夫をコントロールしつつ権力を掌握していった”りく”(宮沢りえ)、夫・阿野全成(新納慎也)の死後に権力欲を剥き出しにした北条実衣(宮澤エマ)、義時の後妻で権力を握るためなら平気で噓を吐く”のえ”(菊地凛子)…と枚挙に暇が有りません。
特に”りく”は、武蔵国(東京都+埼玉県)を奪い取るために時政の娘婿である畠山重忠(中川大志)を追い詰めるよう時政を焚きつけたり、自分の血を引かない時政の子・孫・親族を結果的に謀殺する方向へ向かわせたり、自分の出自である都とのコネクション(平賀朝雅・源仲章…)を利用して権力掌握に役立てたり…と、悪女ぶりを如何なく発揮しています。日本史上の三大悪女は北条政子・日野富子・淀君とされますが、もし劇中の出来事が全て史実だったなら、間違いなく”りく”が最凶でしょう。
ところで、皇統の男系固執派が主張する可能性の話として、豪族や貴族の何某が息子を女帝に婿入りさせたら権力を奪取できるというものがありますが、んなわきゃねぇ(笑)。その息子は、まず間違いなく女帝の掌の上で転がされます。逆に、男帝に嫁いだ何某の娘が夫を転がしていた可能性を否定できますか?それこそが、娘の父親である某氏が権力を掌握できた真の理由ではないでしょうか?ゆえに、某氏に権力を私されないためにも、我が国では女帝が立った方が良いと結論できましょう。日本とはそういう国柄であり、そのことを熟知していた権力者たちは、それゆえ女帝に立ってほしくなかったのではないしょうか?
文責:京都府 京都のS
9 件のコメント
一時的に福原(神戸)へ遷都したい京都のS
2022年9月27日
「鎌倉殿の13人」について、もう一つ。本稿は36回「武士の鑑」までに対する論考ですが、第37回「オンベレブンビンバ」において、畠山重忠が鎌倉に向けて発つ前に妻の”ちえ”に所領を譲っていました。そうなのです。中世は女性が家の当主になることも当たり前の時代だったから当然なのです。後に北条泰時が制定する「貞永式目」にも女性当主の権利を守る条項があります。
※「貞永式目」については「神代から続く常識に立ち返ろう!」( https://aiko-sama.com/archives/5958 )も参照してください。
あの"りく"の故郷に住まうS
2022年9月23日
たこちゃん様、コメありがとうございます。東海道場でもお世話になりました。当サイトでも私が書いて記事の配信を「tacochan」名義だったことがありました。
我が国の歴史は女性が動かしていますよね。卑弥呼、神功皇后、推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇、元明・元正天皇…。権威と権力が分離してからも北条政子、日野富子、淀君らがいます。あ、彼女らは三大悪女ですね。この「三大悪女」という括りは、きっと男尊女卑な学者が選んだのでしょうね。朱子学が完全に根付いて内在化された江戸期は女性が目立たなくなりました。
「鎌倉殿」で印象的な女性として亀(江口のり子)もいます。彼女は頼朝の浮気相手で、嫉妬した政子が「後妻打ち」を発動し、義経を差し向けて家を焼かせました。この時代の女性も凄いパワーを持ってますね。
たこちゃん
2022年9月22日
『鎌倉殿の13人』を毎週見てます。
物語の随所で、女性がキーパーソンになってますね。
最近は、シルビア・グラブさん演ずる後鳥羽上皇の乳母 藤原兼子が、上皇の
側近らとともに、3代将軍の妻としてどこの公家の娘さんを関東に行かせるかと
いう協議にバッチリ参加してましたね。
権力維持の一端を女性が担っていたことは男系さんには耐え難いことでしょう
が、史実なんだから素直に認めてほしいですね。
あの"りく"の故郷のS
2022年9月22日
バチガミ様、かかあ殿下とともに連想される「空っ風」が吹くのは関東平野ですもんね。
バチガミ
2022年9月22日
「かかあ天下」で天下泰平と邪馬台国の卑弥呼の時代から決まってますからね(にっこり)。
平安京のS
2022年9月22日
ダダ様、権威(皇室)と権力(幕府)が完全に分離したのが鎌倉期です。この頼朝方式の発明が日本国の安定に繋がりました。権力は軍事力などによる威圧で奪えますが、権威は生育環境や本人の努力に負う所が大きいと思われます。こうした時所位の「時」を弁えずに再び権力の奪取に動いた後鳥羽上皇らが承久の乱を起こしましたが、結局は泰時らによって鎮圧されて配流されました。
京都のS
2022年9月22日
くりんぐ様、ビンゴです。通い婚の時代(縄文~平安)なら、女帝に入内させた息子の他に、誰が女帝の寝所に通ったかなど誰にも分かりません。婿入り婚の時代(鎌倉~室町)でも間男が忍び込んだかもしれません。我が国は女神や皇族女子が丹塗り矢を持ち込む神話が残る国(やや不敬に当たる気もしますが)なのですから。
ダダ
2022年9月22日
ドラマは見ていませんが、勉強になりました。
武士の時代に、ここまで女性が活躍(暗躍?)していたのですね。
この現代で皇室の乗っ取りが起こるわけないですよね。
天皇も皇族も憲法で縛られているのですから。
くりんぐ
2022年9月21日
男系固執派の方々へ。
豪族や貴族の何某が息子を女帝に婿入りさせ、その間にお子さまが産まれたとして、その子の父親をどう証明しますか?
天皇に権力が集中していた時代、DNA鑑定は存在しません。他に子の父親を誰か証明する方法はありましたか?
なぜ豪族や貴族が女帝を立てて息子を婿入りさせることをしなかったのか。それは子の父親を証明する方法が無かったからです。
母親の場合、子を産んだ女性こそが、その子の母親だと証明出来ます。
天皇の外戚になるには、天皇と親族関係にあることが証明されなくてはなりません。
その証明方法が母親にはあって、父親にはなかった。
だからこそ豪族や貴族は女帝を立てて息子を婿入りさせることをしなかったのです。