博愛と競合の間(承)~有限ゆえ価値希求

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※(起)はこちらからご覧ください。

 岸田秀氏によると人間は本能が壊れているそうです。野生動物なら本能に従うことで現実(個体の生物学的機能&自然環境)に適応できますが、断片化した本能しか持たない人間では個体存在と現実との間にズレが生じ、その隙間は内外の様々な幻想で充満し、諸幻想が構造化されて精神が形成され、精神の中心には自我があるそうです。ゆえに人間は本能ではなく幻想体系としての自我に基づいて行動するわけですが、ここで現実への適応に不向きな幻想の多くは自我から排除されて無意識へ追いやられます。

 また、実体が無い自我は幻想装置で支える必要があり、それが位置付け(≒時間的有限性)と価値付け(≒自己同一性)だと岸田氏は言います。自我は時間的な起源として両親を発明し、集団や過去と繋がることにより自我の物語を生きることになります。そのため人間は自我(物語)の消滅(終幕)という特有の「死の恐怖」を感じるようになりました。そして物語が有限だからこそ人間は人生の意味を問い、他者とは違うアイデンティティを求め、自我を永遠の価値(神・国家・正義・愛・真理・美…)と結び付けようとします。自我を神と結び付けたら敬虔な信者、国と結び付けたら賢明な国民、天皇と結び付けたら恋闕の臣民、それぞれが最高度に達した暁には殉教や特攻に至ると思われます(参照:「『天皇陛下万歳』への道程」)。そして、岸田秀氏と故山本七平氏との対談本『日本人と「日本病」について』において山本は、人間は現実の不合理を全知全能の神や王室に「棚上げ」してきたと言います。近代日本の場合、前近代まで世の不合理を吸収していた神仏や怪異が合理化されて消滅し、棚上げされるべき不合理や全能感は政府と軍人が天皇を政治利用しつつ私物化したと解釈できます(参照:「日本病」を癒すのは誰か)。

 ここで個人の精神分析を民族や国家といった人間集団にも適用する岸田氏の方法論について述べます。上記した個人の場合と同様に、まず民族や国家は当該の人間集団と周囲の環境との隙間に集まった幻想を構造化して文化を創造しました。次に個人の場合と同様に民族や国家も幻想装置(起源神話・歴史認識・国民意識)で支えることになり、他民族や他国とは違うアイデンティティを求め、自国・自民族の存在意義を示そうとします。歴史の浅い米国は覇権を誇示しつつ世界の警察を目指した時期がありました。日本国の場合は権威と権力を分離する政治体制を生み出した歴史を掲げることができましょう。 
(転)へ続く。    

文責:京都のS

1 件のコメント

    京都のS

    2024年2月25日

     確かに(承)はコメントしにくいですね。今回も殉教@中立派氏を召喚したのですが、ダメでしたか(笑)。
     ちなみに扉画像の三種の神器は文中にある「起源神話」を象徴しています。

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