平成26(2014)年3月
愛子さま 12歳の時
作文「藤原道長」を発表
初等科の文集『小ざくら』にて。
「藤原氏に権力が集中していても、天皇には仕事はあったのだと思う。」と記され、「天皇の仕事」に思いを馳せられる。
(展示時「ココ好き」シール 7枚)
学習院初等科を卒業される愛子さまは、同時期に2つの作文を発表されます。
一つは、卒業文集『桜愛集』に収録された、昨日のブログでもご紹介した「大きな力を与えてくれた沼津の海」。
もう一つは、初等科で年に1回発行される文集『小ざくら』に収録された、この「藤原道長」です。
愛子さまは、授業で藤原道長について習った際に、『御堂関白記』にも少し触れます。
その前から、新聞で『御堂関白記』がユネスコ記憶遺産に登録されたことを読んでいたことから興味を持ち、
夏休みに博物館で展示された実物をご覧になってさらに関心が高まり、
作者である藤原道長について調べてみたといいます。
『女性セブン』令和5(2023)年2月9日号に掲載された、作文の一部をご紹介します。
藤原氏は、自分の娘を天皇のきさきとして、外戚関係を築くことにより、勢力を伸ばしていった。その中でも、藤原道長は4人の娘を天皇と結婚させ、摂政や内覧の座について権力を手中におさめていったことが分かった。授業で学習した「望月」※の歌も、藤原道長について詳しく調べていくことで、なぜこのような歌を詠んだのかというその背景をつかむことができた。
また、「御堂関白記」は、世界最古の自筆の日記として貴重なものであるが、実際に見てみると、汚れていなくてとてもきれいに残っていた。きれいに残っているのは、近衛家で大切に保管されていたからだと知った。
(中略)
摂関政治について、授業で学習したときよりも深く知ることができたと思う。天皇と外戚関係を結ぶことによって、摂関政治を行い、権力を得ていたことが、今では考えられない不思議な制度だと思った。藤原氏が政治を行っていた時に、天皇とはどのように役割を分担していたのだろうか。藤原氏に権力が集中していても、天皇には仕事はあったのだと思う。
※「望月」の歌が詠まれたのは、大皇太后(先々代天皇の后)、皇太后(先代天皇の后)、皇后(天皇の后)という三后を藤原道長の娘三人で独占したときのこと
天皇と外戚関係を結ぶことによって、摂関政治を行い、権力を得ていたことが、今では考えられない不思議な制度だと思った。
藤原氏に権力が集中していても、天皇には仕事はあったのだと思う。
さらに、この作文の最後は次のように締められているといいます。
道長の人生は本当に幸せだったのだろうか
私は、この作文を読んでつくづく思いました。
なぜ男系継承を続けるべきなのか?
天皇との姻戚関係が権力掌握に利用された時代の、かつ側室が認められていたからこそ持続できた慣習を、なぜ現代においても続けなければならないのか?
皇統断絶の危機に直面し、皇室の方々が悩み苦しまれている姿をまざまざと見せつけられているにも関わらず、なぜ?
「男系男子が基本」とか「女系を容認したとは言ってない」とか「悠仁さままでの流れは絶対」とか言っている政治家たちは、小学生の愛子さまに向かって自分の考えを説明できるのか、胸に手を当てて考えてみて欲しいです。
そして、愛子さまが考えられる「天皇の仕事」って、なんだろう?と。
皆さんもご存じの「看護師の愛子」が発表されたのは、この1年後。
時系列的に、「藤原道長」で「天皇の仕事」に思いを馳せられたことがこの小説へと繋がっていると考えてしまうのは、私だけでしょうか?
参考文献:
・『女性セブン』令和5(2023)年2月9日号
・藤原道長力作レポート出されたことも…愛子さま『光る君へ』の柄本佑に夢中!?
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文責:静岡県 L.K
3 件のコメント
くりんぐ
2024年8月30日
新しい命を必ず授かれる方法はない。
その命の性別を選ぶ方法もない。
なのに一夫一妻で「必ず男子を一人以上産め」というのは無理がありすぎます。
SSKA
2024年8月30日
藤原氏の権力に対しても単なる批判や悪玉史観では無く、掌中や懐に抱え込む様な視点から冷静な洞察をなさっていて、このお歳で既に常人の域では無いのに驚きましたが、お爺様やお父様から自然に感じ学び取った結果なのかもしれません。
男系主義は結局政治家自身の心の壁なんだと言う気がします。
あしたのジョージ
2024年8月30日
小学生にも劣る今の 政治家達。
学び直しをして欲しい ですね。
私もですが。🥴